「 湯 治 場 日 記 」
2014/7/16
7月9日午後2時奇跡おきる
まさかそんな時間を今の自分に与えられるとは胸いっぱいの喜び
苦難の始まりかも
感動のない人生は死んでるのと同じ
感動は 嬉しい 悲しい 辛い いろいろあるが
そこにウソはない
人を批判することは、かなり慎重にすべき
よくみると 批判するその人は そのことは まぎれもなく自分であることが多い
とてつもなく 残酷に 人をいじめてるのに
本人は 正しいことを言っている 行っている と確信している
貴方だ
2014/5/6
中庭の樹木が緑でいっぱい
うれしさいっぱい
2014/5/4
2006年 脳梗塞になった年、日本人口も下降に入りまして
こらからどんどん続き 8年をむかえます
僕の生まれた 昭和22年は、平均寿命♂58、♀62
現在10年も平均以上で感謝してます
生物は生殖機能が終わると
生の折り返しにはいるそうです
脳と体も、孫が出来る歳で、一般生物は死滅してきたそうです
みみずのように 腸で思考しよう
腸で、文字をかき、絵を描く訓練をしてみよう
養老先生が東大生のころ、毎日死体を運んだそうです
ザリガニで泣かされた 弱虫の自分では考えられない怖さです
果物は腐る前が一番美味しいとききます
若い時のおれみたい
罪のふかさに ふるえる 日々 だれでもそうか
三島由紀夫も、中沢新一も、浅原も、大道寺さんも、時々見るネコさんも
宗教は 世代で 継承する
哲学はしない
なんだかよくわからない。
2014/4/28
思考欠陥
静かに、ゆっくり見ると、かなりの思考欠陥が見える。
自分は自然の一部である それは
自然は自分の一部である
具体的に言えば
癌細胞も自分の一部である
次の形態は 大腸癌細胞となるかも知れない
そのことをしっかり確認すべきだ
事実は 自分の都合であるものでなく 事実は事実で進行していく
観念、概念、自己都合、すべてを一度捨てて
まとっている鎧、服を 取り去ろう
湯治場の在り方
欲にまみれた住職、介護を利用してベンツに乗る、天災を自己都合企画に利用する
それらは全て自己の鏡です
すぐに捨てよう
2014/4/23
21日朝から雨 なんとか南部協働センターにたどりつく
筍料理教室 目の不自由なかたの点字畑でとれた筍です。
雨の中、男は俺一人、帰ろうかと思ったが
我慢している 写真を撮ったり 皆さんの話を聞いているうちに
自分のわがままに 気が付き
なんとも反省する。
2014/4/19
春に花が咲く つめたい冬に 色を磨いて
最近 まったく興味がなかった 花が 草が 頭に飛び込んでくる
花の暴力だ
そういわないでくれ 反省してるんだ そんな綺麗な花弁で責めないでくれ
絵画に 言葉に 音楽に 逃げさせてくれ
よわむしが ずるさおぼえて こきむかえ
でも 生きている
生きることに 邪魔をするのが 自分という観念だそうだ
自分をすてて いきることだけに 集中する
それが生きることらしい
生きることは 罰をうけることでもあるらしい
逃げれぬものなら 迎え撃つしかない きやがれ 闘ってやる
2015/4/18
白紙の紙面がほっとする。
テレビ消し、ラジオ消し、じっと窓から見える小雨をみる。
なんだかんだと理屈の多い人生
これから先もなんだかんだと理屈のおおい暮らしが想像できる
白紙がほっとする理由が解る
ガイドラインがない 縦線も 横線も
そこにあるのは じゆうだ。
2015/4/16
3月12日67歳になる、よく生きたものだ、ずうずうしく
3ヶ月フェイスブックに夢中になる。
「 フェイスブックは顔が見えない 」 友人が言っていた。
なるほどなと、最近おもう。
ホームページと同じで、優秀そうで、便利そうで、面白そう、
実態は、約束事が多く、画一してしまう。
だれに、なにを、何故伝えたいか。
この柱がない。
適当に処理すべきかも知れない。
ホテル時代の友人逝く。
ぶちゃん おやすみ おれも近いうつにいくから
偲ぶ会だよ
2015/1/21
この 2 3 日 大変でした。
風邪をひきそうな 気配 なんとか クリアー
昨日は 足の動きが おかしい
腰が変に重い あの半年大苦労した 狭窄症か
友人にも ぎっくり腰と仲良しが多い
痛さ 悲しさは 本人しか わからない 自分で工夫しよう
毎日のテレビ体操 ゆっくり何度も 少し楽
よわむしが ずるさおぼえて かんれきだ
いや こきか
2014/1/3
ラジオ体操
毎朝 6:25 Uチューブで 体操
生きる気力をもらう
必死で生きる そんな肩の 無駄な力 抜きなさい
ここは しっかり 力を入れ 集中しなさい
毎朝指導いただき感謝です。
2014/1/1
zazaの帰り 松尾神社 透明なひざしのなか
ひかりに さそわれて 本殿による
しらない おばさんに あいさつされる
さいきん そういうことが 多い
優しい妻が 自分のあやまちで 夜叉に
あのとき じぶんは ころされる べきでした
つみには バツを
じぶんの ふぎが たしゃの かがみに うつり まぶしい
おぼえた ぎじゅつで リハビリ サイト つくる
でも 本当は ゆがんだ 心の リハビリ が 必要だ
いいか それは 地獄に行ってからにしよう
2013/12/23
永遠
小学生のころ
ラジオから聞こえる なにはぶしの声に
死の予感を感じ怖いおもいをしました
病気を経験し、まわりに 日常における死という事実が現れて
あらためて 死 永遠 考えました
直接であれ 間接であれ 生きてるものは
その生きてるものを 殺し 食べて 生きていく 何とも残酷な原理です
ある意味そこに時間がかなり入りこんでるとおもいます
時間を飛ばそう 夢中になる 時間が飛ぶ
そこに 永遠があると思います
2013/12/19
18日 定期健診
主治医に風カレンダー 冊子とCD贈る
大変喜んだいただき幸です
2011.6月より 9月15日 までの4ヶ月 地獄の日々でした
不安、苦痛を 俳句が何故 救うことが出来るのか
年間365の句をマウスで描かせていただき
大変勉強になりました
謙虚に学ぶ 全ては それから
自分の力を素直に観る
だれが 何と言おうと 出来ることを こつこつ 行う
それが 一番
2013/11/30
友が 末期のがんで 大変みたいです
今 この生きていることに感謝すべきでした
今日は風もなく あおい空が高く
あたたかい陽射しが こころもからだもつつんでくれます
そう つよがらず よわねをはかず
あたりまえに いきていこう
2013/11/26
小学校のころ 「はたけ」という言葉がありました
家が貧乏 周りもみんな貧乏
とくに自分の場合 毎日ごはんに きなこ おみそ おさとう 大根のはっぱ
そんな毎日でしたので 顔に「はたけ」がよくできました
それがとてもはずかしくて いやでした
この2週間 お米と納豆 お味噌汁 3等分に切った魚と
かなりのメニューです
友人に安楽亭の 焼肉ランチご馳走になりました
内臓もかなりびっくりしたと思います
ホテル勤務の時 なんでこの料理を捨てるのか不思議でした
慣れはおそろしい 自分が一番お粗末な
料理の食べ方をしていました 反省 すみません ごちそうさまでした
これから たいせつに たべていきます。
2013/11/12
風日記カレンダー 2014版作成
あらためて、俳句の持つ力に感じ入る
大腸ポリープ、癌、高血圧、ヘルニア、数々のストレスに対応
「 大空に近道はなし鰯雲 」
お世話になった人に献上しよう。
2013/11/7
パソコン供養調べる なかなか難しい
廃棄処分サービス メーカーでは 自社製品のみ
一般処分だと ¥3,000〜¥5,000
データー処理に タッチせず
トイレのないマンションというが 東北だけではないらしい
利用できるだけ、利用し あとは知らない
さみしい話
リングで闘い リングで敗れる それならば納得できるが
老兵は消え去るのみか いや還暦超えて
リングに這い登る
愛して使うと 愛されるそうだ
パソコン供養公園なんとか考えてみよう
2013/11/5
パソコン 1台、一人おかしい
学生君が言っていたが、パソコンは壊れるものです
それを承知して使いましょう ん なるほど
終わりのない人生 考え、想像するとぞっとする
そうだパソコン供養塔つくろう
2013/11/1
人の役に立つ 迷惑をかけない
むつかしい いろいろあって なかなかできない
たのしいことは すぐできる
そうだ 役にたつことが楽しくなればいいんだ
ほんとうのところを ほんとうにとらえて
ほんとうにやればいいのかもしれない
ほんとうのところをほんとうにやりつづければ そうでないことはすぐわかる
ほんとうでないものは すぐすてよう
2013/10/29
0 と1 ONとOFF そのくりかえし 1秒に何億のくりかえし
電気を媒体に思考回路が生まれるらしい
脳梗塞でいたんだ脳とは相性がいいかもしれない
電源の+と+が反発するように
正確で誠実なしすてむが、かなりあぶない脳と仲がいいんだ
朝いつもおもいだす すまない日を ごめんなさい
罪に罰を 罰を受けます 弱虫に強さをください
2013/10/23
病院定期健診 何だかくらくらする
血圧正常、脈拍が早いそうだ どうでもいいよ
おもえば2年前2011.9.15 大腸癌の細胞検査の結果を聞くため
さらの下着に着替え、覚悟決めて南病院に
2時間近く待たされ 悪性細胞なく無罪放免 うれしかった
記念して 風日記カレンダー 描く
いきること せつめいいらぬ あきのそら
ホテル時代の仲間が、長野でホスピスに入館したそうだ
僕も、夏の4ヶ月、検査、検査で 宣告
大腸癌それもリンパまで進行していそうだ、いかつい顔したポリープでした
一人で、ぼろあぱーとのふとんにくるまりないた
こえも なみだもでなかった それから2年以上 いつどうなるか いま元気
それで じゅうぶん おもったことを いまやろう
そう あたりまえを あたりまえに あたりまえでないことはしない
2013/10/21
「1 2 3」 ホテル勤務の時、宣伝予算「1億」使い過ぎ
大目玉、企画課長から、お弁当 ケータリング係長 に左遷 今思えば 楽しい時間
40の時 脱サラして、2年で負債 「2億」
磐信、浜信、第一勧銀、父、義理の父、大変迷惑かけました
59歳 脳梗塞発病 現在66歳 後遺症だんだん良くなる
3日前、発病前の 革靴履ける 嬉しくて歩き回る
一生装具とのお付き合いと覚悟していたのに
よし 調子に乗って ぶたも褒めれば樹に登る 仕事だ
1 プラス 2、 3 で清算 1 プラス 2 プラス 3 で 「6億」
どっちかな
2013/10/20
アッレ この感覚は、血圧 下 210 上 260 で入院した時 似てる
瞬間 あせる 朝3時から パソコン業務に集中のせいか
ッマ いいか 倒れて7年
なるべき 人様の迷惑にならない倒れ方をしよう さがす
象さん だと自分で 墓場にいくそうだ
動物園のゾウさんは どうするのかな 人間の生活は動物に残酷なことをする
それにきがつかないから おそろしい
人間に、事故も、病死もないそうだ あるのは 寿命だけですって
2013/10/10
10月10日は1964年東京オリンピックの開催日でした。
私、高校1年生、袋井中学より、磐田南高に入学しました、
父の通った、日大三高によく似ていたそうです、
法多山の二軒家の農家に末っ子で生まれ、又平といいます。また生まれたからですって。
父がいなく、間引きされても、しぶとく生き抜いたそうです。
幼く、静岡の蒔絵職人として、丁稚にだされたそうです、それがいやで逃げて、
新聞配達しながら、日大三高、上智大学 新聞学科に通ったそうです、
今、想えば、かなりの貧乏の中で、よく学校に通わせてくれました、感謝してます。
お金持ち、貧乏、人それぞれです。
一生懸命、考え、動く 「 あたりまえを あたりまえに 」
それなりの、結果が出るみたいです。
「 あたりまえを あたりまえにしないと 不本意の結果になるみたいです。」
それが、人生のルール、礼儀みたいです。
2013/10/9
電気料金未納の為、電気が止まりそう、HPもできない。
HPて、何の意味があるのか、よくわからない。
自分の時代を、大きくわけると、「一人と自然」 幼稚園時代、走り回った菜の花畑
「アホと群れ、欲とがやがや」 学校、就職、ホテル、寺院、NPO等何ともやりきれない。
「病気との付合い」 不安との対峙
残った時間、感謝して生きる。
「 あたりまえを、あたりまえに。」 あたりまえでないことはしない。
2013/10/8
ザザ4階オアシスでパソコン触る
すごい勢いで頭に入る
自宅で、元城での作業能率とぜんぜん違う。
何故か、ハーフミラーの事務所が原因か
だれともしゃべらず、目と耳だけ
プログラム、英語、この際モノにしてみよう、
骨董サイト、ばさら、婆娑羅、自分の大切なモノを、大切な人にあげる、
もしくは、高く売る、
湯治場倶楽部として、あげる、寄付したい骨董は欲しい人にそのまま寄付、
売る場合は、最低仕入価格の2倍以上、ブックオフは10倍以上、
そこまであこぎになれない、決めた、倍返し、これでいこう。
2013/10/3
1964年、高校1年、アメリカン生活スタイルの浸透
1970・大阪万博覧、1990・バブル崩壊
2020年、73歳 何が起きるか、知ることが出来るか、
いい加減に生きた自分には、贅沢な考え
それでも、バブルよもう一度、それいけどんどん
2013/9/30
ホテル
「おもてなし2020」グランドさん30億でホテル開業 桜田さんの援助
地場鉄道、コンコルドに刺激受け、開発銀行に、前の30億に加えて120億
当時売上27・29・33億と右肩上がり
数年平均 日\10,000,000 年 36億
銀行提出書類は 60億見込
ホテル エグゼティブハウスで提出書類を作りました
オータニから来た営業部長さんもいました
バンカーとかいう開発銀行から来たおじさんもいました
ふたを開ければ42億
企画担当として責任感じます
なにを考え、何を調べて、何を企画していたのか、反省
ずるずると 今の売上は いくらかな
銀行さん、スズキサン教えて
責任のがればかりしないで
2020を記念して、ホテルの現状、見込、将来を見てみます。
2013/9/17
ホテル勤務時、縁あり浜松情報知る。
当時、浜信木村理事長と懇意の様子。当社の社長がはしりの様子。
周年記念のイベントに歌手小柳さんを呼び
記念品に、自分のレリーフの置物。
もらった人は、いったい何に使うのか。金貸しの思考か。
そういえば、当社ホテル先代ご夫妻の銅像はどこに。
開発銀行さん、オータニさん、スズキさん、東海銀行さん教えてください。
オータニの美術館に大谷さんのレリーフまだ置いてるのかな。
「 あたりまえをあたりまえに 」
2013/9/16
2007年2月 パレット紹介いただいて6年
何故か今はありません。
NPOのお手伝いさせていただき不信感で一杯です。
名誉がほしい、お金がほしい。
その為なら何でもやる。それがNPOの本質なのか。
もっとひどいのは、助成金だけ取得してなにもしない。
私のまわりにそんな組織ばかり。
「 おれおれ詐欺と NPOに気をつけよう。 」
2013年9月14日
元城事務所撤退する。
非常にスッキリする。
見栄の為に重い荷物をしょいこんだ自分の思考に反省。
人のことは、俯瞰で良く見えるのに、自分のコト 特に欲と見栄がからむと、
ほとんど見えない。しっかりと反省しましょう。
獄中の大道寺さんに笑われます。
2013年9月8日
HP 大学生に教えて頂き約半年 真剣さを持つため
1時間¥2000支払うことにする
思った以上の効果 真剣に勉強するようになる 時間は金である
賢者は一人 アホは群れる
66年 何とたくさんのあほと群れてきたか 反省
8月29日元城の事務所にカード入れたキーホルダー忘れる
午後6時 自宅につき気がつく 事務所は明日9時まで入室できない
5階の大家さん待つ 7時大家さんの奥様帰宅
事情を話しスペアーかぎの使用依頼
最近アパートをミニミニ、正式にミニレッツに売却したため
かぎはそこにあり 私は関係ありませんとのこと
ミニレッツ 電話したところ 私どもはミニレッツの下請け業者であり
当番としているだけで ミニレッツの営業時間 明日10時過ぎに
身分証明するもの持参で会社事務所にいらいするよう言われる ひどいものだ
自分たちに責任がこないよう ただそれだけの対応
不動産業者 ミニミニグループの企業姿勢が垣間見えた
覚悟決め 自室の廊下に明朝まで待機する
お金はつり銭の3円のみ
のどの渇きに水道さがすが、見当たらない
脳梗塞後遺症 半身不自由のからだに不安が襲う
アパート周辺うろうろ はしご見つけ 2階の自室によじ登ろう
がたがた作業していると 昔知り合いの1階の知人が 「あぶないからやめたほうがいいよ」
全くそのとおり 半身不自由のみでは 転倒する可能性おおいにあり
人間の渇きの不安は理性を飛ばす
廊下で約3時間 何か逆に心底の解放感を感じる ホームレスとはこういうことか
死 とはこの延長にあるのか 楽しいことかもしれない
よく挨拶かわす4階の美人のお姉さん帰宅
お水一杯お願いすると
さっそく冷えた自然水のペットボトル戴く
ありがたい 朝まで大切に すこしづつ飲む 感謝一杯
2013年8月15日 11:30
中瀬公民館(協働センターという言葉大嫌い、役人のおもいあがりを感じる)にて約束あり。
遠鉄赤電「芝本駅」より歩く、小さな地図たよりに。
炎天下、てくてく 10分 20分 30分 かなりきつい
脳梗塞後遺症左半身不自由になって初めての行軍 40分 約3kなんとか到着
冷房の館内、T シャツ ジャケットが汗でグッショリ
エアコンが シャツを冷たくし 非常に気持ち悪し 文明の真の姿か
大きな樹の下で涼めば と心より思う いつのまにかエアコンに頼り、スイッチ一つで快適さを得る
それは 本当か それは 違う そんなものは すぐなくなる
孤独死 熱中症病死 回りの方の迷惑除けば 理想の最後だ
今回 逃がした 思い切り 生きてやる
最近感動した人 浅川智恵子
仕事とは何か 真剣に生きる目的を持つ
6月一五日曇一二時半元魚ハイツ
友人の提案にて、湯治場出版始める。「いねかねて自照はてなしつゆじめり。」 将司。
真摯、自分には、六十六年縁のない単語である。足元の宝石を追い散らし、自己の単純欲に走る毎日。おそらく幼稚園に通う頃、山家中学校の桜がとても素敵でした。手を添えて幹に触った感触が残っています。学校のトイレで引揚者の家族のお母さんがよく首をつっていました。引揚げて全てを失い、トイレもない防空壕跡での生活。黄色の菜の花畑走り回り、風がほほをなぜました。オノヨウコのいう地球の動く音が聞こえたかもしれません
。いつも床屋のAこちゃんの後ろに隠れて暮らしていました。魚屋の甲斐君、お店のざるにお金が一杯。すぐ先の銭湯は一回2円でした。母と兄そして妹、歩いて約30分前後、立て替えたおこずかいを何度も母に確認しおこられ、あきられました。60年前のはなしです。高崎山の頂からゴジラが出てくる想像に怖いおもいをしていました。
「ホテル、お墓、そしてNPO。」
丸井が撤退したのが、浜松の衰退の始めでしょう。グランドホテル浜松に、職安の紹介で入社して半年以内、当時ヤマハの川上源一さんが元気な頃、戸田和夫さんも、松菱も、ヤシマパチンコ店も、榎本ビルのオープンとダブります。パレットて何、とやかく理屈並べても、安くコピー出来る。県から予算が取れる。それだけか、地下道であった大石さん反吐が出る。障害者を援助支援する、ユニバーサルという言葉と、障害者を食い物にして生きていく。どう違うのか、示して欲しい。、黄色いカラス。小学四年の時、九州別府より、父の実家、袋井、二軒家の納屋の2階に移転しました。袋井南小学校、歩いて一時間。通学時、よくいじめられました。いじめる人、
いじめられる人、それぞれです。生物の自然の生態を考えればどうでもいい話に思います。あまりに騒ぎ立てすぎではないでしょうか。細川ガラシャの語る、散るときを知りてこそ花は花なり、人は人なり。友人の関係で、介護施設、病院等に取材に4〜5年通いました。当時はバス路線
も不便、脳梗塞で後遺症の半身不随のからだでは、大変でした。でもこれまでの数々の人生無礼に関
しますと一言もありません。五木さんの親鸞、新聞小説読ませて戴いたとき、なんて五木さんて残酷な
方と恐怖を感じ、新聞社も、NHKも金のためならなんでもやるのかとガッカリ。記憶のなかでヘミングウ
エイは書けなくなった自分に絶望して猟銃を咥えたそうです。音楽も、小説もヒットとは何か、一つの愛
好グループの現象ではないのか。少なくとも辺見さんがだした「カン一揆」大道寺さんの句集の明快さが
見えない。お互い褒め合って金にしてるみたい。お金は死んだら使えないの、ベンツであの世に行けないの。どこかの紙屋のおやじのように、ゴッホと一緒に燃やして欲しいとかなりのアホがいました。少なくとも半身不自由の私は順調に推移すれば、チューブだらけで病院のベッドだと思います。書ける、考える
ことが出来る時に、第二の人生無礼者の私が増えないよう事実ありのまま記します。
「寿陵墓」お殿様、貴族等身分の高い人が、生前に自分のお墓をよういする。私が東京で約8年、都心近郷、八千代から藤沢まで6000以上の寺院を、墓石の営業するときの基本単語でした。東京は地方
からいらした方がほとんどで、お墓は実家のある故郷で、身内の誰かが継承しています。家を建て、
子供も一人立ちでき、あとは自分たちの最後の棲家を自分たちで用意する。自然といえば自然です。
でもここで、お墓、檀家、ある面考えると、江戸時代宗教の持つエネルギーに恐れを感じた幕府が何
とかエネルギーの拡大を防ぐため、宗教に金をにぎらせ衰退ようと考えた唯一の方法が寺請制度だそ
うです。現代における「寿陵墓」は、欲の輪廻かもしれません。えらいお坊さんは、死期を感じたら裏庭
に穴を掘り、体を埋めて、細い竹で息をして、飲まず、食わずで最後を迎えたそうです。
ねこを、からすを、象さん、一般庶民、みんなお墓はなかったのです。まして「寿陵墓」もう一度意味をみつめよう。
しやわせの ぎゅうぎゅうつまった さくらんぼ
ザザシティーの前のバス停で、ベンチに座ってバスを待っているとき、こちらに急ぎ足で向かう女性がふと気になり、じっと見ます。ゆたかなむねが、潮の満ち引きのようにゆったり動き、見ている人間もゆたかにさせます。こんな素敵な人が多かれば、痴漢も、アダルトも、ストーカーも、橋本さんもあんな発言をしなくてすむのに残念、近くにいらしたのでなにげなく真剣に見つめますと、おそらく40代、さりげないけどもってるものが凄い、いぜん紹介された金持ちのおばさんが自慢げにもっていたルイのバックをホイとかかえ、(よくみないとルイと認識できないモノトーン)素足にサンダル。生きててよかった。
エンドレス
貧血症状ありと主治医のお話、何でかな、胃カメラ、内視鏡検査、内視鏡はなかなか大変、若いころ勢いで飲んだビアガーデンのビールの量にちかい、ゲザイを飲んで十数回トイレに通い、報告する。看護婦さんも大変だ。6月中旬検査、一週間後検査報告、癌と思われるポリープあり、おそらく癌と思われる。写真を見せていただき私も、その不敵な形状をみて、癌だと思う。細胞検査、ポリープ摘出手術行うとのこと、脳梗塞後遺症、高血圧治療のため飲んでいる薬を4週間とめて実行。ポリープ7個あり、一つ一つ看護婦さん確認、読み上げ聞こえる、最後7つめ癌と思われるポリープ摘出、何か全身が軽く、非常な爽快感が充満する。病室に帰り気分爽快、楽しい気持ちでいて、退院の日、主治医より細胞検査結果、3週間後報告、おそらく癌、それも悪性進行癌でしょうと言われ悲しい、雨のひどい天気、一人かさにしがみつき自宅の布団で泣く。検査報告の日、きれいな下着に着替え、覚悟決めて病院待つ時間がながく苦しい。主治医より何度さがしても、癌細胞見つからず、よって本日でこの件は、無罪放免。うれしかった。その気持ちを何か表現したく風日記カレンダーを描く。あれから3年、あれが欲しい、これもしたい、不満と欲のエンドレスごめんなさい。
せんたく
たおれる前59年、せんたくの記憶がない、あえて言えば浜松リハビリテーション病院に入院し、リハビリを受けていたとき、おなじ患者のお母さんたちが、せんたく作業のリハビリをよく見ました。なんでこんな楽しいことを今まで自分でしなかったのか残念です。ホテルサラリーマン時代、エリートだった上司がある日変わり、出社しなくなり、自宅で専業主婦の仕事に専念しだし、家族が困惑されたことをおもいだします。今わかります。ビジネスと称して、ごみを作る作業の手伝いがいやになったと思います。毎日新聞の折り込みを見るのがすきです。これもやっぱりゴミかなと思われるものがおおいです。それは個々の価値観のちがいでしょう。三島さんが小説の中で新聞の活字がゴキブリがはっているように見えるとの表現がありました。せんたくにそれがないのです。
「 夏深し 魂消る声の 残りけり 」
将司さんが、獄中で永山則夫最後のことば、さけびを聞いたときの作品だそうです。反省、後悔、くやむ、星の数ほど、いまだに人様にめいわくかけている始末。罪には罰を、薔薇には棘を、でも部屋の隅で泣いては暮らせない。今の自分にできることなんとかやるしかない。明かない闇はない、でも夜明けは必ず闇をむかえます。 井の中のかわず大海を知らず、しかし天の高さを知る。 うそをつかない 真摯のずっと手前これから始めよう。
今日でおわり
酒をやめ、音楽をけし、テレビをとめ、ラジオもとる。幼稚園のころの環境ににせてみる、うすぎたなく年を重ねてそれはむりか、そうだ京都にいこう、そうだあの世にいこう、不義理をした友人、親類、両親、怖い顔してまちかまえている。どうしよう障害者のコント大会があるそうだ。自分の障害をいかにぎりぎり笑いに運ぶか。おもしろい、深刻ぶって、かわいそうぶって、ひょうめんだけでたすけあって、すべておわりにしよう。そうだあちらにいこう。
世界史の越境に向けて
??柳田国男から吉本隆明までーー
宮内広利
はじめに
わたしたちの言葉は羅針盤をなくしたかのようにいつまでも表現の海を漂っている。曰く、「停滞」、「解体」、「挫折」、「希望」etc.そのどれひとつ、わたしたちの心の尖端を引っ掻くことのできないもどかしさを抱えている。そのような宙づりにされた言葉は、口にした途端、もしかしたら、ひとびとの微妙な心理にさえも反作用し、生活事実として、皮膜のように本人に覆いかぶさって、さらに、心を内向させているのではないか。むろん、希薄な言葉の消費力に対しては、郷愁もロマンも手をさしのべない。一口に停滞感というけれど、それが噛みしめるべき生活事実の、どのような深みで、また、広がりで抽出すればいいか、すでに分からなくなっているからだ。そのとき、排出口のない鬱屈と管理されすぎる社会の隙間に、救われない悲劇として「猟奇」の影がしのびよる。でなければ、もし、この、泥沼のような内面世界を脱けだす道しるべがあるとすれば、幾重にも折り重なった化石のような言葉の中から、自らが吐き出した「停滞感」という言葉そのものの根源を解きほぐし、何回目の停滞感だったろうかとひとつひとつ指折り数えるよりほかない。それこそがほんとうの自己史を探すための糸口であり、世界史を身の丈にあった歩幅で切り取ることが可能な時間でもある。だが、ともすれば、いつもここで私たちは躓く。
≪死は特定の個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、そして両者の統一に矛盾するようにみえる。しかし、特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。≫『経済学・哲学草稿』マルクス著城塚登・田中吉六訳
マルクスは、たとえ特定の人間が特殊な能力をもった個人であり、個体的に優劣がつけられるにせよ、その同じ程度において、彼は思惟する限り、社会の観念的総体性において現存しているので、社会的な関係や生命活動の中に現存しているとした。だから、「死」というものが、そういう社会的現存性と矛盾し、ある場合には、無視しようとしたとしても、類的存在をまぬがれない、そういう個と類の二重性の統一としてのみ人間は現存しているとみなした。
いつの時代でも英雄豪傑はいたが、彼らは死の矛盾を抱え、それを人に語り、個体性を強調しつつ、死を恐れながら一代で何事かをなそうとし、あえて「死」を荘厳に飾りたてようとした。「死ねば死にきり」と声高にいう奴に限って、せいぜい50年や100年を測る個体性の意味をふれまわり、時に、翌日にも忘れられそうな平凡な死を軽蔑した。それに逆らうように、柳田国男が「常民」に込めた思いは、幾分、このようなマルクスの見方と重なる。柳田における「常民」性とは、「時代を同じくする国内同胞の多数のもの、千人の中の九百九十人までが、既に確信しもしくは予期しているところのもの」を抱懐する人々を指していた。ただ、柳田においては多数というのみではなく、歴史性と人間との関係において、次のように媒介されていた。
≪学問は本来至って寂寞なものである。ことにかような人を見る学問に至っては、久しい間の一国の同胞と、自分らばかり対立したような地位になって、国民が「見る人」と「見らるる人」との二つの組に分かれなければならず、自分は彼らの群に混じて、浮かれたり酔ったりすることができなくなる。いわばこれは大昔からもっていた太平無為とのお別れである。もっとも今一段と社会が意識的になれば、ふたたびこの差別もなくなって、同時にまた見られるに値する古代からの伝承も消え去るであろう。≫『郷土研究ということ』柳田国男著
柳田は、マルクスと違って、個と類の矛盾を人間の本質的なものとは解していなかった、その限りで「常民」概念を紡ぎだすことができた。この柳田に対して、「飢餓」や「貧困」、「差別」、「戦乱」、総じて「稀少性」あるいは「階級」とかの言葉を反措定することもできた。事実、戦後すぐの頃、イデオロギー的な批判ではなかったが、柳田民俗学は戦争責任論を問われたことがあった。益田勝実は、柳田が空襲下で『先祖の話』を書き表わし、「七生報国」の遥かな歴史的価値を考察する一方で、徴兵された実子の帰還を日記で願っている矛盾を指摘し、『先祖の話』で書いていることと、生きて自分の子供の帰還を期待している心情の裂け目に筆が届いていなかったのが、柳田の民俗学のアポリアではないかと指摘した。その上に立って、彼の民俗学が、一回性としての戦乱や貧困、飢餓に伴う具体的な農民の悲喜の心情や、生活にとって欠かせない年貢の歴史性などを考察の対象外においたのは、「常民」概念の狭さに起因していると疑義をはさんでいる。もし、平民の反省の学問を挙げる意図を中心にみれば、戦争に好意的ではなかった心情と実際の擦り合わせを怠ったギャップが、次第に戦争に対する見通しを見失った原因ではなかったかとの問いかけがなされ、次のように述べている。
≪柳田国男自身の心中にとぐろをまいていたあの戦中の<疑い>と、その口々に大声で語られる戦後の<疑い>との関連、また<疑い>を抱く自己と、口には少しも出さない他の国民大衆との関連の問題、すなわち、「涙もこぼさずいさぎよく出て行く者が多かった」という観察は大いに正当であろうが、はたして、それがどのようないさぎよさなのか、いさぎよいものばかりなのか、と自分の<疑い>の真実性に発して、<疑い>の友を発見していけなかったところに、柳田の問題がある。≫『「炭焼日記」存疑』益田勝実著
ここで益田は、戦後、大戦に対する反省がひとびとに一般化した時点で、「国民共同の大きな疑い」をはさむのは容易だが、戦中において微かな異和感を対象化し、それを共同の疑いとして追及しなかったのは、柳田自身と「常民」の関係を相対化しなかった民俗学の立場が、とおりすがりの旅人の観察、採集でしかなかったことを意味し、主体性喪失の学であると断定している。こういう益田の主張は、当然、柳田が「常民」という概念をどのような時間的幅で取り出したかを考えていないところから出る疑問である。なぜなら、柳田が、戦中期、心の中に萌した疑いと、「家」を中心にした論議は、時間の幅を長くとれば、決して矛盾するものではないとおもえるからだ。おそらく、益田は、戦後、皆が戦争に対する反省を当たり前のように受け取った時点で、戦争批判するのは意味がないので、心の中に留めた時間に遡るべきだと言いたいのだろうが、その間に流れる時間は、せいぜい「家」の一世代の歩幅にすぎない。柳田が、「家」という場合、先祖から折りたたまれた記憶の束であって、それに比べれば、益田がいうような一世代ほど遡って目に映る国民共同の疑いの連帯など、たかが知れていた。ある意味、柳田が戦前、戦中をつうじて「家」のはざまで寂寞感をかこったところにこそ、ほんとうの意義があった。
なぜなら、柳田の「常民」概念は、そういう疑いを持つものと持たないもの、いいかえれば、「見る人」と「見られる人」の矛盾がなくなる未来に照らしてこそ、その有効性を持っていたと考えられる。その時点で、柳田にとって振り向くべきものの裏側に、同時に、たどりつくものとしての理念として「常民」性が含まれていたからである。この時間に対する「理念」がなければ、おそらく、書き物としての資料の過重さや、文字のあるところでないと歴史はないかのごとく考える従来の歴史学をおおきく覆すことはできなかったに相違ない。柳田が、「見る人」という自覚に寂寞さを感じたことが、近代の自己意識の始まりであり、それをどう始末したかという経路こそが、おのずと、「起源」への方向性を開くものだった。
近代の歴史観の礎を築いたのはヘーゲルだったが、彼によれば、歴史は理性自身が絶対の究極目的である以上、自らに手を加え、その活動や生産を外にあらわすことにほかならず、その現れが、自然的宇宙であり精神的宇宙、つまり世界史だとした。そして、そうした理念だけが歴史を見る栄光に報われるとし、それを歴史哲学と呼んだ。だが、自分自身に還る理念は、当たり前のように、「見る人」の側の歴史のみで成り立っていた。
しかし、いまもそれを相手に格闘している「近代」にも、ついこの間までは、歴史の感触を、「起源」の問題としてとらえ、折り畳んだ時間を座布団のように横に崩すことができると信じられた瞬間をもっていた。つまり、わが国が近代の坂を登って行こうとしたとき、柳田国男が民俗学を出発させたのは、山地にこめた次のような感慨が出発点にあった。
≪ここにかりに『後狩詞記』という名をもって世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、もちろん第二期の狩についての話である。言わば白銀時代の記録である。鉄砲という平民的飛道具をもって、平民的の獣すなわち猪を追い掛ける話である。しかるにこの書物の価値がそのために些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、その中に列記する猪狩の慣習がまさに現実に当代に行われていることである。…中略…山におればかくまでも今に遠いものであろうか。思うに古今は直立する一の棒ではなくて、山地に向けてこれを寝かしたようなのがわが国のさまである。≫『後狩詞記』柳田国男著
ここで山地に向けた矢印には焼畑農業が太古から引き継がれ、歴史の現在に刻印を残しながら、共時的に並べる手法を柳田が獲得しようとする経緯が破曲線で示されている。柳田の描いた歴史の今昔は、中世の古武士が阿蘇の荒漠たる火山の麓で、弓を引いて野山の鳥獣を追い掛けていた時代からはじまって、鉄砲を手に入れた土民が、糊口の種に鹿を絶滅まで追い込むまで、各時代をこえて、次第に、土地の名目と猪狩りの作法の詳細と伝聞の範囲を広げていきながら、山の民が「山の神」を恐れ、射止めた猪の心臓を山の神に献上する祭文にまで辿りつく。このときすでに、歴史の区分けをぬきにして、わが列島の歴史は山から始まったという信仰や伝説が、横へ横へと延びていく柳田のフィールドワークの方法は踏み固められた。ミシェル・フーコーは日本の柳田国男であるというわたしの確信は、この横へ横へと流れる特異性に求められる。
1 常民と常世信仰
一方で、言葉に時代への有効性があるかのように考えることを拒絶し、文学の信仰起源説を唱え、言葉の世界に通時的に海の郷愁やロマンを持ち込んだのは折口信夫だった。言葉が信仰なくしてどうして伝承され記憶できるのか、というのが近代的な切り口をもって示したその根拠だった。
≪私の考へを言ふと、刈り上げ祭りと、新しい年のほかひとは、元は接続して行はれてゐたのである。譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月、節分と立春と言つた関係で、前夜から翌朝までの間に、新甞とほかひとが引き続いて行はれた。まれびとは一度ぎりのおとづれで、一年の行事を果したものであろう。其が時期を異にして二度行はれる様になつてからは、更に限りなく岐れて、幾回となく繰り返される様になり、更にまれびとなる事が忘れられて、村の行事の若い衆として、きぢの儘に考へられ、とどのつまりは、職業者をさへ出すことになつたのである。≫『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著
ほかふ、ほかひとは、神が讃えるという謂である。まれびとの訪れが二度になった理由は、祖先の有力な種族が南島から渡ってきたことに求められる。もともと、これらの南方種は熱帯で二度の秋の刈り上げをしていた。その名残が土地の農業暦を産み出し、のちのちの帰化種によってもたらされた陰陽道に影響されたものと考えられている。
≪此まれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を負って逐うて移つた時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考へ、更に地上のある地域からも来る事と思ふ様に変つて来た。古い形では、海のあなたの国から初春毎に渡り来て、村の家々に、一年中の心躍る様な豫言を與へて去つた。此まれびとの属性が次第に向上しては、天上の至上神を生み出す事になり、従つてまれびとの国を高天原に考へる様になつたのだと思ふ。而も一方まれびとの内容が分岐して、海からし、高天原からする者でなくとも、地上に属する神たちをも含める様になつて、来り臨むまれびとの数は殖え、度数は頻繁になつた様である。≫
『古代生活の研究』折口信夫著
折口のザックリした日本人の精神史を凝縮すれば以上のとおりだが、その過程には住民の微妙な喜怒哀楽の歴史が潜められていた。もちろん、わたしたちの古代研究が、単に、好事家の知識に終わらせないためには、この歴史の中の人々の感情の襞にどれだけ迫れるかという問いを含んでいなければならないことを折口はよくわきまえていた。柳田国男は、その呼び名そのものが比較的新しいものと考えているが、折口にとって、まれびとがそこからやってくると考えたトコヨノクニとはいかなる処なのか。
≪思ふに、古代人の考へた常世は、古くは、海岸の村人の眼には望み見ることも出来ぬ程、海を隔てた遥かな国で、村の祖先以来の魂の、皆行き集つてゐる處として居たのであろう。そこへは海路或は海岸の洞穴から通ふことになつてゐて、死者ばかりが其處へ行くものと考へたらしい。さうしてある時代、ある地方によつては、洞穴の底の風の元の国として、常闇の荒い国と考へもしたらう。風に関係のあるすさのをの命の居る夜見の国でもある。≫『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著
≪常世往と言ふ古事記の用例は、まづ一番古い姿であらう。「とこよにも我が往かなくに」とある大伴坂上郎女の用法は、本居宣長によれば、黄泉の意となる。此は確かさが足らない。が、とこよをは楽土とは見て居ないやうで、旧用語例に近よつて居る。常夜・常暗など言ふとこは、永久よりも、恒常・不変・絶対などが、元に近い内容である。ゆくは続行・不断絶などの用語例を持つ語だから、絶対の闇のあり様で日を経ると言ふことであらう。≫『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著
常世とは「闇の国」であり、地下あるいは海底の「死の国」、「夜見の国」と考えられていたから、そこから来臨する常世の神を恐ろしい鬼と考えることもできた。だから、村落生活のために土地や生産、建物や家長の生命を祝福し、幸福を運んでくれるのだが、裏腹に、恐ろしいから早く立ち去ってもらいたいと考えたとしてもおかしくない。のちのち、そこには、外来思想を交えてさまざまのバリエーションが生じたが、仏教など外来思想によって上辺は変化しつつも、それと違った意味にその概念を育てるというのが、わが国の外来文化に対する接触の仕方であり、常世信仰の受容の形式自体は変わっていない。折口のあまりに文学的の語り口の中に含まれている言葉は、琉球神道が内地の神道の一つの系譜、あるいは、古神道の姿をよく保存しているとみなした上で、琉球宗教のにらいかない(儀来河内)が死の島であったことを根拠にしている。これは柳田が竜宮伝説を取り上げたときに指摘したニルヤに照応する。折口の眼には、琉球諸島の現在の生活は、萬葉びとの生活を、そのまま髣髴させると映った。また、萬葉人以前の俤さへ窺はれるものが決して少なくない。そればかりか、古代生活の研究に、暗示以上のもっと露骨な、そのままをむき出しにしている場面がしばしばあると考えた。そういう場面の印象は、次のような空想を交えずにはいなかった
≪一体沖縄の島々は、日本民族の核心となつた部分の、移動の道すぢに遺つた落ちこぼれと見るのが、一番ほんとうの考へらしい。内地にあつた古代生活の、現に琉球諸島に保存せられて居るものは、非常に多い。さすれば、此南島にある民間伝承の影が、一度は、我々の祖先の生活の上にも翳してゐた事も考へられなくはない。≫『信太妻の話』折口信夫著
では、ここで、なぜ、琉球諸島だけにそれが保存されていたのか。こう問いかけるとき、列島を縦断する時間が、まるで積み木のように重ねられているかのように考えられる。しかし、いわゆる日本人が環太平洋の島々から橋のように南島をつたってやって来る前に、わが列島には人っ子一人いなかったというのも空想であるし、日本語の祖語がなかったというのも憶測にすぎないのだが、折口には、ただひとつ、「移動」に分け入る方法が欠けている。もちろん、柳田や折口の言葉で言えば、「先住民」と後からやってきて列島に住みついた人々の信仰や経験の時間差がこれを補っているかに見えるが、ただそれだけでは曖昧さがともなう。折口は、「先住民」という実体を必要としたが、柳田の場合、それは可変なイメージで取り上げられているに過ぎない。そうでなければ、おちこぼれなどという言葉は意味をなさないはずだ。なぜなら、反対に、内地の古代生活は、なぜ、保存されず、こうもちがったものに変化したかを問えばすぐ分かる。しかし、今はそれを問わない。なぜなら、それは折口や柳田の方法の根幹に関わることであり、ただ、二人のその原イメージの保存のされ方の相違が大切だからだ。折口のこういう原イメージを誘惑したのは、豊後から琉球列島に向けて逆に辿った柳田国男の旅行記の次のような想像世界である。
≪世界の海の荒れ狂ふ日には、餘波は寄せ来つて此千瀬を打越した。島ばかりが独り平穏なるアトールのやうな世中を、維持して行くことは不可能であつた。空と海との縫目の絲も、時あつて綻びざるを得なかつた。日を経て南の風の吹く頃は、遥かなる常夏の国から椰子の実が流れて来る。之に細工をして瓢に代へ泡盛の芳烈なるものを掬んで楽む中に、次第に島人の心は廣くなつた。沖に出て見ると渡り鳥はどこまでも飛んで行く。雲より外には又幽かなる次の島の影があつた。小舟にクバの葉などの帆を掛けて、知らぬ島々を見に往く者は、やがて又大きな船を誘うて戻つて来る。岡に登つて送る者待つ者、我と海上に漂ひあるく者も、いつと無く此千瀬の白い波を、眺めては憂苦するやうになつたのである。≫『海南小記』柳田国男著
そして、柳田国男は、列島人種の起源を南から北上したと認めた。その宿命的な流浪の旅を環太平洋の点在する島々の中に思いをめぐらした。柳田の発想は、この「沖の島」に込められた。
≪少なくとも此等の沖の小島の生活を観ると、それは寧ろ物の始の形に近く、世の終の姿とはどうしても思はれぬ。即ち大小数百の日本島の住民が、最初は一家一部落であつたとする場合に、與那国人の今日の風習が、小島に窄んだから斯うなつたと見るよりも、やまとの我々が大きな島に渡つた結果、今日の状態にまで発展したと見る方が、遥かに理由を説明しやすいように思はれる。北で溢れて押出されたとするには、平家の落人でも無い限は、こんな海の果まで来さうにも無いが、南の島に先づ上陸したとすれば、永くは居られぬからどうかして出て来たであろう。さうして取残された前の島の人を、必ずしも屡々想ひ出すことは無かつたかも知れぬ。仮に此推測が当つて居たとすれば、我々は誠に偶然の機会に由つて、遠い昔の世の人の苦悶を、僅かながらも此あたりの島から、見出し得たことになるのである。≫『與那国の女たち』柳田国男著
2 巡遊伶人
折口は、その信仰がわが国の文学の発生の根拠をなしたとみなしている。それは現在あるがままの本質とは全く異なった経路を辿った。文学は古代の生活の極めて遠い原因から産まれたととらえられる。折口は、文学発生の動機を「かみごと」(神語)に求めた。そして、抒情詩よりも抒事詩が先行すると主張する。抒事詩の発達において注意すべきは、その人称の問題である。
≪一人称式に発想する叙事詩は、神の独り言である。神、人に憑つて、自身の来歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡の恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。而も種族の記憶の下積みが、突然復活する事もあつた事は、勿論である。其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡の口を衝いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文要素が加つて居た。…中略…此際、神の物語る話は、日常の語とは、様子の変つたものである。神自身から見た一元描写であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに発想は一人称に依る様になる。≫『国文学の発生(第一稿)』折口信夫著
こうした呪言が三人称風になるにつれ叙事詩化し物語を分化させる。そうして、種族生活に関わりの深いものを語り伝えていくうちに、暗誦と曲節の熟練のひとつの様式として、巫覡が分化し、世襲制の語部(かきべ)という職業が発生した。郡ほどの大きさの国、邑と言ってもよい位の国々が、国造、縣主の祖先に保たれていた。彼らは、現人神の神主としてそれぞれかきべの民をもっていた。もともと高級巫女は権力者であるか、権力者の近親であった。高級巫女は神の嫁であり、まれびとは嫁(巫女)の神がかりをつうじて呪言を発する。最も古い呪言は、神託のまま伝習せられた信仰のまま、神の断案、約束、強要を意味した。
≪常世のまれびとと精霊(代表者として多くは山の神)との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一般化して、詔旨(宣命)を発達させた。庶民の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力を及すものと信じられて居た。…中略…詔旨は、人を対象とした一つの祝詞であり、やがて祝詞に転化する途中にあるものである上に、神授の呪言を宣り降す形式を保存して居たものである。法令の古い形は、かうした方法で宣り施された物なることが知れる。≫『国文学の発生(第四稿)』折口信夫著
この神の呪言の威力は永久に亡びぬものとして大切に秘密に伝誦せられていた。「天つ祝詞」と称せられるものがそれである。天つ祝詞には、自らの素性から国産みと山川草木、日月闇風を生み食物を作り出した理由を語り、人間の死の起源や鎮魂法までも説く。また、火の神の来歴からそれを防ぐ方便まで、その精霊の弱点を示し土地を鎮静しようとするものである。それは時と場所とを変え、新築のときであったり、1年の農作業の祝福であったり、時節の移り変わりを教えにくるのである。やがて、祝詞の口授者自身が神になることもあったらしい。また、祝詞には占いと関係するものが多くなる。必ず、祈願にはどうなるかという問いを含むからである。
また、呪言とは、土地の精霊との直談判であり、神が精霊にかけあうようにも見える。ここでは、常世のまれびとの威力がその土地の先住者たる土地、物の精霊を圧伏した来歴を語り、昔の神と精霊の関係を精霊の記憶に上らせようと、それぞれ常世神と精霊に扮した神人が演舞し、結局、精霊は村落生活を脅かさないことを誓うことになる。この代表者として精霊が考えられ、のちに「山の神」と称せられることになる。これは神がシテ、「才の男」がワキの対立関係が見られるものだ。「才の男」は神の宣託を人間の言葉に翻訳し、それを人の動作にコピーする役割を道化役のことだ。こうした道化役がでてきておどけを行うのだ。口答えをするこの「才の男」はもともと人形(偶人)であった。神楽の間に偶人が動いてより納得させようとした。道化役をもどきというが、もともとはこの偶人のしぐさから来た。偶人は精霊の代表者であり、身の近くに置いて、穢禍を吸い取る偶像であった。「才の男」は土地の精霊に擬されていた。このもどきの系統が千秋萬歳に発達した。
考古学者の寺沢薫は、弥生人の祭りには二つの顔があったといっている。ひとつは、作況を占い、雨を乞い、害虫や風雨を避け天地を静める祭りであり、穀物に宿る恵みの霊を禍から防ぐもので、地霊と穀霊という二つの精霊の観念が生まれる。それだけではなく、祭りは、葬送に関わるもので、死者の再生を願い祖先の霊が共同体に安寧と秩序をもたらし、守護霊としての祖霊への畏敬を含む別の側面をもった。この二つはわたしの言葉でいえば、神の観念と霊魂思想の結びつきである。その上で、寺沢はその祭りの観念を、祭器としての青銅器を使って説明している。第一は青銅器が権威の証になるほどの貴重品であったこと、第二に金属のもつ荘厳さがその属性において霊力を持つと考えられたこと、第三は青銅器を作る作業が錬金術師の魔法に似た効果をもつことである。だが、こういう言い回しはあまりに機能的でにわかには信じられない。これではほとんどプロテスタンティズムに近いではないか。それはシャーマンの役割の理解に如実に現れる。彼は戦うシャーマンと穀霊を守るシャーマンの二様性があると言う。
≪倭人の四季を思い出してほしい。春の訪れは田んぼへの白鷺の飛来から始まる。弥生人の心の奥底には、あの白い鳥がイネの霊を運んできた、という思いがあったのではないか。鳥装のシャーマンのマツリは、その観念を形にしたものだ。田んぼのイネは夏にむけて生長する。秋の実りまで台風、洪水、病虫害、穀霊に災いをもたらす諸々の悪霊、邪気は避けねばならぬ。銅鐸は、春のマツリが終わっても、水田のみえるムラの祭場(蘇塗のような場所)で稲魂の安全を見守ったはずだ。白鷺がこの間、つねに水田に居着いて稲魂を見守ったように。秋の収穫祭が終わると、初穂は小さな祠(穂倉)の祭壇に祀られ、稲穂がついた種もみ用の穂束は神聖な祠(穂倉)に安置される。しかし弥生人の観念の世界では、稲魂は白鷺に連れられて、来年の春まで再び常世へと帰るのである。それはまさしく、去来するカミなのだ。現実と観念との錯綜のなかで、稲魂が逃げて二度と来ることがない、ということだけは避けなければならない。銅鐸はこの期間、今度は祠のなかで種もみの稲魂が逃げないように呪縛し、見守っておかねばならぬ。≫『王権誕生』寺沢薫著
この例証として挙げているのは、辟邪と呪縛という呪力を秘めている銅鐸の模様の二面性である。しかし、これは信仰そのものが対象性として明白に意識されており、そのシャーマニズムは後期のものにちがいない。なぜなら、折口のような仮定をすれば、常世神の信仰が次第に薄れてきて、もともと常世神の受け手であったにすぎない山の神がその代りを務めるようになり、一人称であったシャーマンの言葉が、同類である地の精霊に対して向かうことになるような変質をくぐりぬけたからである。これは銅鐸の神の表現が三人称になったことに裏づけられている。寺沢は銅鐸に悪霊と戦うシャーマンや鳥装のシャーマンが描かれていたり、また、鳥取県淀江町稲吉角田遺跡の大壺にマツリの全容が描かれていることから、古代信仰の跡が辿れると思っているらしく、それによると船に乗った常世の住人がやってきて、「蘇塗」と呼ばれる柱と梯子の異常に長い祠があり、さらにその奥には高床倉庫があり、かたわらに二つの銅鐸がみえる。そのそばで地霊とみられる動物が見ているという構図である。しかし、これは既に祭りの自意識が「記述」され、発展したところに成立しているのであり、いわば、原初の祭りの意識そのままではない。柳田の言葉を借りれば、すでに、「祭」から「祭礼」に変わっているものだ。
そして、もっと遡れば、神がシテ、「才の男」がワキの対立自体、「記述」されない歴史の闇を潜るなら、さして古いものとは言えない。なぜなら、台風、洪水、病虫害、穀霊への戒めは、すでに人間が対象化した自然にすぎないからだ。農耕が始まり豊凶を占い、祈る儀式は、自然の息遣いに息をひそめるような「畏怖」とは言えないからだ。ここでもし、段階という概念を使うとすれば、わが列島にはじまる縮小した世界史の概念という限定をつけざるをえない
同じように、柳田が民謡や口碑ばかりでなく、取り上げた民衆が言葉なしに表す身振り、笑顔、泣くことなど感情の表現も含めて日々作っている「限界芸術」という概念を借りて、鶴見俊輔は次のように述べている。
≪こうして、柳田国男は、純粋芸術・大衆芸術をふくめて芸術一般の起源を限界芸術にもとめ、限界芸術の集大成を、それぞれの時代の祭に見た。祭は、集団全体が主体となって、みずからの集団生活を客体としてかえりみて、祝福することであり、平常はアクセントなく流れている集団生活が、このとき短い時間の中に凝集され、一つのモノの形をとる。…中略…大正・昭和期における祭の衰えは、祭が演じる者と見る者とに分離してしまったことからくる。≫『限界芸術の研究』鶴見俊輔著
このような考え方ができるのは、鶴見の「限界芸術」が、もともと衣食住を確保する労働の倍音として始まっていることを前提にしているからだ。それは大衆芸術・純粋芸術の原点として、その後の芸術の成立の土台となる。そして、それは、折口が示すかきべが神との関係が次第に薄れて、芸術としての第一歩が踏み出される段階に照応する。邑、家、土地から遊離して漂泊する一群のひとたちが生まれ、神事としての堕落は芸術の開放になった。神人が豪族の庇護を失うのには理由があった。ひとつは大和本村の神を受け入れたこと、また、仏教の受け入れに順応できなかったことなど「神々の死」があげられる。「その神々のむくろ」を護ることで脱出口を求めてうかれびとは後から後から出てきた。やがて、政教を引き裂く大化の政が行われる。
≪政教を引き裂く大化の政の実効のまづ挙がったのは此種の村々であらう。而も何かの理由で、国造と関係のない者がとつて替つて郡領となつたり、さうでなくとも中央から来た国司が、地方の事情を顧みないで事をする場合には、本貫に居る事が、積極的に苦しみの元であつた。日向の都野神社の神奴は、国守の私から、国司の奴隷とせられた。神の憤りは、国司に禍を降す代りに、神奴の種を絶されるに至つた(日向風土記逸文)。此は国造の神が、郡領に力はあつても、倭から置かれた官吏には無力であつた事の、悲しい證據である。と同時に、恐らく下級神人の二重奴隷と言ふ浮む瀬のない境涯に落ちた事を見せて居るのであらう。≫『国文学の発生(第二稿)』折口信夫著
彼らは沢山の家族団体を引き連れて亡命し流民となり、巡遊が新しい生活様式になる。かきべのほか、折口の言う「乞食者」とは、土地に結びついた生業を営まず、旅から旅に人に養われながらほかいなどした神事をやることを職業化し、やがてそれが芸道化したのがほかひびとであり、これを「巡遊伶人」と呼んだ。彼らの存在は、祝詞から叙事詩への転化と照応し、その叙事詩に合わせて鹿や蟹の身振り舞うものまね舞踊が付け加わった。これは精霊に対する威嚇の意味をもっており、この舞踊がもともと神事に深い関係をもったことを窺わせる。やがて、叙事詩から抒情詩へ転化するには創作意識の発芽が必要だった。人であらわせば、柿本人麻呂の時代である。この時代、語部(かきべ)とほかひびとが融合し始める。
神社制度が確立し、語り部の仕事が下級の神人に手に移っていき、地位が低下するにつれて、落伍したものが、ほかいびととなり職業化する。これには後ろ盾をなくした神人や零落した流離生活を始めた旅人である。そして、ほかひと語部(かきべ)は相互浸透して行く。もともとほかいとは無縁であった叙事詩がある村から他の村に語られ、持ちまわされ、叙事詩は散布されるようになる。全国に記紀、万葉、風土記の中に伝説の分岐したものが見られるのは、このためである。柳田は、この担い手の実相を次のように述べている。
≪クグツまたはサンカが山野の竹や草を採り、わずかばかりの器物を製作してこれを販ぐは、かかる大種族の生計の種としてまことに不十分なり…中略…しかしながら遠く古代の状況に遡りて見れば、彼等はこのほかにまだ相応の収入の道を有せしなり。その一はすなわち祈祷にして、その二はすなわち売笑の業なり。しこうして歌唱と人形舞わしはまたこれに伴える第三の職業なりしなり。時勢の変易とともにこれ等の業はすでに分化して一々の専門となり≫『「イタカ」及び「サンカ」』柳田国男著
折口は、柳田を援用して、ジプシー同様の生活をしていたサンカ、傀儡子(くぐつ)とその女性版である遊行婦女(うかれめ)に注目して、巫と娼を兼ねる彼らが先住民の落ちこぼれで、各地を流れわたっているうちに定住したうかれびとの原型とし、ほかひびとがほかひの叙事詩化の過程において、彼らと交差するとみなした。「巡遊伶人」は叙事詩をほかひしているうちに、やがて歴史の中にはいるようになると自然と変形され、聞くものの心を誘うものとして悲恋を謡うものにさえ、修正が加えられて民間伝承になる。
≪だから、叙事詩の拗れが、無限に歴史を複雑にする。更に考へを進めると、続日本紀以降の国史に記されて居る史実と考へられて居る事も、史官の日次記や、若干の根本史料ばかりで、伝説の記録や、支那稗史をまねた当時の民間説話の漢字書きなどを用ゐなかつたとは言はれない。≫『国文学の発生(第二稿)』折口信夫著
また、次のようにも述べられている。
≪古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人に神憑りした神の、物語つた叙事詩から生れて来たのである。謂はば夢語りとも言ふべき部分の多い伝への、世を経て後、筆録せられたものに過ぎない。日本の歴史は、語部と言はれた、村々国々の神の物語を伝誦する職業団体の人々の口頭に、久しく保存せられて居た律文が最初の形であつた。此を散文化して、文字に記したのが、古事記・日本紀其他の書物に残る古代史なのである。≫『最古日本の女性生活の根柢』折口信夫著
3 常世神と日の神
その叙事詩の口承民潭には、数々の変奏が加えられながら原型を失ったものも少なくないが、折口の言う直感によって透視されないことはない。
≪垂仁天皇の皇子ほむちわけが、出雲国造の娘ひなが媛の許に始めて泊つて、其様子を隙見すると、をろちの姿になつて居たので遁げ出すと、媛の蛇は海原を照して追うて来たとある。此話に出産の悩みをとり込んだのが、海神の娘とよたま媛が八尋鰐或は、龍になつたと言ふ物語である。此まで重く見られた産の為とする考へは、寧、後につき添うた説明である。おなじ事はいざなぎの命・いざなみの命の離婚の物語にも、言ふ事が出来る。見るなと言はれたのに、見られると、八つ雷(雷は古代の考へ方によれば蛇である)が死骸に群つて居た。其を見て遁げ出した夫を執ねく追跡したと言ふのも、ひなが媛の話と、ちつとも違うてゐないではないか。≫『信太妻の話』折口信夫著
これらは国の違う者同士の結婚は、妻の本国の神に仕える期間は夫にも知らせない、もし、この誓いを破ると互いの仲は壊れてしまうと民潭にはしばしば出て来る。「異族の神」を苦々しく眺める心持がこのような物語を発生させた。折口が例証として挙げているのは、琉球女性が母から伝わり、嫁入りには必ず持っていくという香爐である。これは女性だけが祀る神を意味し、夫や子にさえ拝むことを許されていない。ここから、折口は、もともとの原型に遡り、村々を呪縛したトーテミズムの禁忌にまで対象を拡げている。トーテミズムの対象は、動物だけでなく、植物も空気も風もそれぞれの村の信仰生活の第一歩であった。
もし、折口の言うように、琉球人が日本人の落ちこぼれだとしたら、では、このような習慣が本土の日本人の中にも深く根づいていないのか。答えは二つしかない。日本人と呼ばれる人たちが外族に根こそぎ侵食されて、このような信仰を失ってしまったか、それとも、日本人という一括して呼びならわされた民族概念を今一度解体させねばならないということだ。そして、民族概念を解体するのには、極端に種族の概念に近づけるか、あるいは民族内共同体に引き寄せるかしかないとおもわれる。これは古代史を取り扱う根本的な方法の問題である。
前者について、柳田は、沖縄の島々の神道が、中国大陸からの影響がいたって少なく、仏法も無力であり、我々の大和島根の信仰から、中世の政治や文学の与えた感化と変動を引き去れば、そうであったような生活実態が垣間見れるという。その例として柳田の挙げているのは、第一に女性のみが祭りを支えていることである。つまり、巫女を通じて神の神託によって神の本意と心持を理解し、それに基づいて信心をしていることである。その神が祭りの祈りの際、出現し、その場所を自ら選定されたところを「御嶽(オタケ)」と呼んでいることである。祭りの日には、里に接した丘、または平地の林にあり、草木が茂り入り込むのに難しい御嶽に、ノロ(祝女)、カミンチュ(神人)などの女性のみが式法にのっとって神を迎え神の祝詞を受ける。
では、琉球の常世の観念は、日の神を拝み、天を尊ぶ「天降神話」とどう結びつくのか。柳田は折口と違って、実は、常世信仰と天降神話を対には扱わず、日の神と天降神話を対にしている。常世の観念が日の神に結びついて、天の信仰に移行したとする。
≪日本でも古く経験したように、日の神を拝む信仰は、最も容易に天を尊ぶ思想に移り得たのだが、それが沖縄ではやや遅く始ったために、まだ完全なる分離を遂げなかったのである。朝夕に天体の運行を仰いでいた人々には、いわゆるニルヤ照りがありカナヤ望月が、冉々として東の水平を離れて行くのを見て、その行く先になお一つのより貴い霊地の有ることを認め、人間の至願のそこに徹しそこに知られることを期したのは、或いは天の神格を認めるよりは前であったろう。…中略…是が新たな神観の移行を導くに便だったことは、海をアマといい、天をアメという二つの日本語の互いに繋がり通うていた実状からも類推し得られる。≫『海神宮考』柳田国男著
柳田の場合は、琉球は常世神=日の神と天の神の信仰とが未分化なまま残っているというような言い方をしているが、折口は、はっきりと、常世神の思想は日の神思想と全く別のルートをとってきたとみなしている。常世信仰が一般的であったが、「新に出現する神を仰ぐ心が深かつた」として、それに覆いかぶさる形で取って代わった、ある部族の信仰であった日の神信仰が、普遍化した経路を辿っていくべきだと述べている。しかも、常世神そのもののニュアンスが違っている。
≪昔になるほど、神に恐るべき要素が多く見えて、至上の神などは影を消して行く。土地の庶物の精霊、及び力に能はぬ激しい動物などを神と観じるのも、進んだ状態で、記録から考へ合せて見ると、其以前の髣髴さへ浮んで来るのである。其が果して、此日本の国土の上であつた事か、或は其以前の祖先が居た土地であつた事かを、疑はねばならぬ程の古い時代の印象が、今日の私どもの古代研究の上に、ほのかながら姿を顕して来る事は、さうした生活をした祖先に恥ぢを感じるよりも、堪へられぬ懐しさを覚えるのである。≫『古代生活の研究』折口信夫著
「其以前の祖先が居た土地」に対する折口が感じている懐かしさは、非常に長い射程を持っていることがうかがえる。それに加えて、どうも、折口と柳田の常世の方角は正反対を指しているようにおもえる。いわば、折口はかつての日本人が渡来してきたルーツであった南西太平洋を偲び西を向いているのだが、柳田の場合、昇る日の神と重ねられて東を向いている。これも、柳田と折口が日の神をどう位置づけているかに深く関わっている。日本人のルーツともいえる東進の原動力の違いとも受け取れる。
ひとまず、「日本人」に限って言えば、もともとの信仰生活を破綻させたのが外族との抗争であるなら、統一国家の生成に向かって、歴史は辿っていくこの過程を、折口は次のように陳べている。
≪上代の邑落生活には、邑の意識はあつても、国家を考へる事がなかつた。邑自身が国家で、邑の集団として国家を思うても見なかつた。隣りあうふ邑と邑とが利害相容れぬ異族であつた。其れ同時に、同族ながら邑を異にする反発心が、分岐前の歴史を忘れさせた事もあらう。かう言ふ邑々の併合の最初に現れた事実は、信仰の習合、宗教の合理的統一である。邑々の間に厳に守られた秘密の信仰の上に、霊験あらたなる異族の神は、次第に、而も自然に、邑落生活の根抵を易へて行つたのである。飛鳥朝以前既に、太陽を祀る邑の信仰・祭儀などが、段々邑々を一色に整へて行つたであろう。邑落生活には、古くからの神を保つと共に、新に出現する神を仰ぐ心が深かつたのである。≫『国文学の発生(第一稿)』折口信夫著
そして、邑は領主の国造によって、私的に国と名乗っていた。その国造は神主として民に臨んでいた。そういう邑々を統一したのが大和朝廷であった。しかし、邑々の生活がひとつの宗教に統一されていても、つまり、大和朝廷のもとで単なる邑のひとつとして国造が豪族になったとしても、邑々時代の生活を簡単に変えようとしなかったところに軋轢が生じた。
彼らの共同体の構成は、前3世紀前葉には、寺沢によると、母集団を中心に周りに小さな村々が衛星のようにあり、小河川にそって群れをなしたのを「小共同体」と呼び、同じ灌漑水路を共有するとしている。このように稲作のための灌漑施設の利用が共同体の構成を規定している。さらに、こうした小共同体が各河川の上流、中流、下流に集まり、同じ水系をもとに水支配集団の紐帯を示すようになると「大共同体」と呼ばれる。
≪ここで言う大地域(大共同体)を、『隋書』倭人伝に「
このような寺沢の発見は、列島の国家の発生を前3世紀から前2世紀の弥生時代前期末〜中期初めまで遡らせようとする見解であり、古代史の定説を覆すものである。これはどの段階をもって「国家」として認定するかの違いであるが、寺沢は「部族的国家」がクニを指すと考えるから、そのクニこそが国家の始まりと考える。はじめ、国または国家連合の中心は北九州にあった。ところが、後200年頃から北部九州中心の連合国家「倭国」の力のバランスが崩れはじめ、中部九州、山陰、瀬戸内、近畿、東海にそれぞれ国家連合が鼎立し、利害と駆け引きが始まった。そして3世紀初め奈良盆地で巨大な政治的、祭祀的権力をもった大和王権が誕生する。これこそが倭国の新しい政体と言われる。
≪新生倭国は、部族的国家の連合体ではあるけれども、祭祀圏の違いや外的国家としての異質性を乗り越えて、まったく新しい祭祀と政体を共同で作り上げようとする巨大な幻想的運命共同体という側面が強いのだ。こうして新生倭国はイト倭国とは比較にならない広範な領域に、上から一気に王国誕生の網が被されたことになる。だから私は、ヤマト王権の誕生を、七世紀後半の律令国家の成立という、王国の完成にむけての日本国家形成の第二段階の始まりとして評価している。≫『王権誕生』寺沢薫著
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