「 湯 治 場 日 記 」


2014/7/16

7月9日午後2時奇跡おきる

まさかそんな時間を今の自分に与えられるとは胸いっぱいの喜び

苦難の始まりかも

感動のない人生は死んでるのと同じ

感動は 嬉しい 悲しい 辛い いろいろあるが

そこにウソはない

人を批判することは、かなり慎重にすべき

よくみると 批判するその人は そのことは まぎれもなく自分であることが多い

とてつもなく 残酷に 人をいじめてるのに

本人は 正しいことを言っている 行っている と確信している

貴方だ




2014/5/6

中庭の樹木が緑でいっぱい

うれしさいっぱい


2014/5/4



2006年 脳梗塞になった年日本人口も下降に入りまして

こらからどんどん続き 8年をむかえます

僕の生まれた 昭和22年は、平均寿命♂58、♀62

現在10年も平均以上で感謝してます

生物は生殖機能が終わると

生の折り返しにはいるそうです

脳と体も、孫が出来る歳で、一般生物は死滅してきたそうです

みみずのように 腸で思考しよう

腸で、文字をかき、絵を描く訓練をしてみよう





養老先生が東大生のころ、毎日死体を運んだそうです

ザリガニで泣かされた 弱虫の自分では考えられない怖さです

果物は腐る前が一番美味しいとききます

若い時のおれみたい

罪のふかさに ふるえる 日々 だれでもそうか

三島由紀夫も、中沢新一も、浅原も、大道寺さんも、時々見るネコさんも

宗教は 世代で 継承する

哲学はしない

なんだかよくわからない。


2014/4/28

思考欠陥

静かに、ゆっくり見ると、かなりの思考欠陥が見える。

自分は自然の一部である それは

自然は自分の一部である

具体的に言えば

癌細胞も自分の一部である

次の形態は 大腸癌細胞となるかも知れない

そのことをしっかり確認すべきだ

事実は 自分の都合であるものでなく 事実は事実で進行していく

観念、概念、自己都合、すべてを一度捨てて

まとっている鎧、服を 取り去ろう

湯治場の在り方

欲にまみれた住職、介護を利用してベンツに乗る、天災を自己都合企画に利用する

それらは全て自己の鏡です

すぐに捨てよう







2014/4/23



21日朝から雨 なんとか南部協働センターにたどりつく

筍料理教室 目の不自由なかたの点字畑でとれた筍です。

雨の中、男は俺一人、帰ろうかと思ったが

我慢している 写真を撮ったり 皆さんの話を聞いているうちに

自分のわがままに 気が付き

なんとも反省する。



2014/4/19

春に花が咲く つめたい冬に 色を磨いて

最近 まったく興味がなかった 花が 草が 頭に飛び込んでくる

花の暴力だ

そういわないでくれ 反省してるんだ そんな綺麗な花弁で責めないでくれ

絵画に 言葉に 音楽に 逃げさせてくれ

よわむしが ずるさおぼえて こきむかえ

でも 生きている

生きることに 邪魔をするのが 自分という観念だそうだ

自分をすてて いきることだけに 集中する

それが生きることらしい

生きることは 罰をうけることでもあるらしい

逃げれぬものなら 迎え撃つしかない きやがれ 闘ってやる








2015/4/18

白紙の紙面がほっとする。

テレビ消し、ラジオ消し、じっと窓から見える小雨をみる。

なんだかんだと理屈の多い人生

これから先もなんだかんだと理屈のおおい暮らしが想像できる

白紙がほっとする理由が解る

ガイドラインがない 縦線も 横線も

そこにあるのは じゆうだ。


2015/4/16

3月12日67歳になる、よく生きたものだ、ずうずうしく

3ヶ月フェイスブックに夢中になる。

「 フェイスブックは顔が見えない 」 友人が言っていた。

なるほどなと、最近おもう。

ホームページと同じで、優秀そうで、便利そうで、面白そう、

実態は、約束事が多く、画一してしまう。

だれに、なにを、何故伝えたいか。

この柱がない。

適当に処理すべきかも知れない。



ホテル時代の友人逝く。

ぶちゃん おやすみ おれも近いうつにいくから

偲ぶ会だよ




































2015/1/22

保証人で頭が痛い

父4000万・元妻の父13000万・堺氏1000万 迷惑かけました。

現在、まだ1口 進行中

国民金融公庫 税金で運営 確実に回収される

何とか 数字を作る それしかない

生きてる内に何とかしよう



2015/1/21

この 2 3 日 大変でした。

風邪をひきそうな 気配 なんとか クリアー

昨日は 足の動きが おかしい

腰が変に重い あの半年大苦労した 狭窄症か

友人にも ぎっくり腰と仲良しが多い

痛さ 悲しさは 本人しか わからない 自分で工夫しよう

毎日のテレビ体操 ゆっくり何度も 少し楽

よわむしが ずるさおぼえて かんれきだ

いや こきか











2014/1/3

ラジオ体操

毎朝 6:25 Uチューブで 体操

生きる気力をもらう

必死で生きる そんな肩の 無駄な力 抜きなさい

ここは しっかり 力を入れ 集中しなさい

毎朝指導いただき感謝です。



2014/1/1

zazaの帰り 松尾神社 透明なひざしのなか

ひかりに さそわれて 本殿による

    

しらない おばさんに あいさつされる

さいきん そういうことが 多い

優しい妻が 自分のあやまちで 夜叉に

あのとき じぶんは ころされる べきでした

つみには バツを

じぶんの ふぎが たしゃの かがみに うつり まぶしい

おぼえた ぎじゅつで リハビリ サイト つくる

でも 本当は ゆがんだ 心の リハビリ が 必要だ

いいか それは 地獄に行ってからにしよう




2013/12/23

永遠

小学生のころ

ラジオから聞こえる なにはぶしの声に

死の予感を感じ怖いおもいをしました

病気を経験し、まわりに 日常における死という事実が現れて

あらためて 死 永遠 考えました

直接であれ 間接であれ 生きてるものは

その生きてるものを 殺し 食べて 生きていく 何とも残酷な原理です

ある意味そこに時間がかなり入りこんでるとおもいます

時間を飛ばそう 夢中になる 時間が飛ぶ

そこに 永遠があると思います




2013/12/19

18日 定期健診

主治医に風カレンダー 冊子とCD贈る

大変喜んだいただき幸です

2011.6月より 9月15日 までの4ヶ月 地獄の日々でした

不安、苦痛を 俳句が何故 救うことが出来るのか

年間365の句をマウスで描かせていただき

大変勉強になりました

謙虚に学ぶ 全ては それから

自分の力を素直に観る

だれが 何と言おうと 出来ることを こつこつ 行う

それが 一番








2013/11/30

友が 末期のがんで 大変みたいです

今 この生きていることに感謝すべきでした

今日は風もなく あおい空が高く

あたたかい陽射しが こころもからだもつつんでくれます

そう つよがらず よわねをはかず

あたりまえに いきていこう


2013/11/26

小学校のころ 「はたけ」という言葉がありました

家が貧乏 周りもみんな貧乏

とくに自分の場合 毎日ごはんに きなこ おみそ おさとう 大根のはっぱ

そんな毎日でしたので 顔に「はたけ」がよくできました

それがとてもはずかしくて いやでした

この2週間 お米と納豆 お味噌汁 3等分に切った魚と

かなりのメニューです

友人に安楽亭の 焼肉ランチご馳走になりました

内臓もかなりびっくりしたと思います

ホテル勤務の時 なんでこの料理を捨てるのか不思議でした

慣れはおそろしい 自分が一番お粗末な

料理の食べ方をしていました 反省 すみません ごちそうさまでした

これから たいせつに たべていきます。




2013/11/12

風日記カレンダー 2014版作成

あらためて、俳句の持つ力に感じ入る

大腸ポリープ、癌、高血圧、ヘルニア、数々のストレスに対応

「 大空に近道はなし鰯雲 」

お世話になった人に献上しよう。


2013/11/7

パソコン供養調べる なかなか難しい

廃棄処分サービス メーカーでは 自社製品のみ

一般処分だと ¥3,000〜¥5,000 

データー処理に タッチせず

トイレのないマンションというが 東北だけではないらしい

利用できるだけ、利用し あとは知らない

さみしい話

リングで闘い リングで敗れる それならば納得できるが

老兵は消え去るのみか いや還暦超えて

リングに這い登る

愛して使うと 愛されるそうだ

パソコン供養公園なんとか考えてみよう


2013/11/5

パソコン 1台、一人おかしい

学生君が言っていたが、パソコンは壊れるものです

それを承知して使いましょう ん なるほど

終わりのない人生 考え、想像するとぞっとする 

そうだパソコン供養塔つくろう


2013/11/1

人の役に立つ 迷惑をかけない

むつかしい いろいろあって なかなかできない

たのしいことは すぐできる 

そうだ 役にたつことが楽しくなればいいんだ

ほんとうのところを ほんとうにとらえて

ほんとうにやればいいのかもしれない

ほんとうのところをほんとうにやりつづければ そうでないことはすぐわかる

ほんとうでないものは すぐすてよう


2013/10/29

0 と1 ONとOFF そのくりかえし 1秒に何億のくりかえし

電気を媒体に思考回路が生まれるらしい

脳梗塞でいたんだ脳とは相性がいいかもしれない

電源の+と+が反発するように

正確で誠実なしすてむが、かなりあぶない脳と仲がいいんだ

朝いつもおもいだす すまない日を ごめんなさい

罪に罰を 罰を受けます 弱虫に強さをください



2013/10/23

病院定期健診 何だかくらくらする

血圧正常、脈拍が早いそうだ どうでもいいよ

おもえば2年前2011.9.15 大腸癌の細胞検査の結果を聞くため

さらの下着に着替え、覚悟決めて南病院に

2時間近く待たされ 悪性細胞なく無罪放免 うれしかった

記念して 風日記カレンダー 描く

いきること せつめいいらぬ あきのそら

ホテル時代の仲間が、長野でホスピスに入館したそうだ

僕も、夏の4ヶ月、検査、検査で 宣告

大腸癌それもリンパまで進行していそうだ、いかつい顔したポリープでした

一人で、ぼろあぱーとのふとんにくるまりないた

こえも なみだもでなかった それから2年以上 いつどうなるか いま元気

それで じゅうぶん おもったことを いまやろう

そう あたりまえを あたりまえに あたりまえでないことはしない


2013/10/21

「1 2 3」  ホテル勤務の時、宣伝予算「1億」使い過ぎ

大目玉、企画課長から、お弁当 ケータリング係長 に左遷 今思えば 楽しい時間

40の時 脱サラして、2年で負債 「2億」

磐信、浜信、第一勧銀、父、義理の父、大変迷惑かけました

59歳 脳梗塞発病 現在66歳 後遺症だんだん良くなる

3日前、発病前の 革靴履ける 嬉しくて歩き回る

一生装具とのお付き合いと覚悟していたのに

よし 調子に乗って ぶたも褒めれば樹に登る 仕事だ

1 プラス 2、 3 で清算 1 プラス 2 プラス 3 で 「6億」

どっちかな


2013/10/20

アッレ この感覚は、血圧 下 210 上 260 で入院した時 似てる

瞬間 あせる 朝3時から パソコン業務に集中のせいか

ッマ いいか 倒れて7年

なるべき 人様の迷惑にならない倒れ方をしよう さがす

象さん だと自分で 墓場にいくそうだ

動物園のゾウさんは どうするのかな 人間の生活は動物に残酷なことをする

それにきがつかないから おそろしい

人間に、事故も、病死もないそうだ あるのは 寿命だけですって



2013/10/10

10月10日は1964年東京オリンピックの開催日でした。

私、高校1年生、袋井中学より、磐田南高に入学しました、

父の通った、日大三高によく似ていたそうです、

法多山の二軒家の農家に末っ子で生まれ、又平といいます。また生まれたからですって。

父がいなく、間引きされても、しぶとく生き抜いたそうです。

幼く、静岡の蒔絵職人として、丁稚にだされたそうです、それがいやで逃げて、

新聞配達しながら、日大三高、上智大学 新聞学科に通ったそうです、

今、想えば、かなりの貧乏の中で、よく学校に通わせてくれました、感謝してます。

お金持ち、貧乏、人それぞれです。

一生懸命、考え、動く 「 あたりまえを あたりまえに 」

それなりの、結果が出るみたいです。

「 あたりまえを あたりまえにしないと 不本意の結果になるみたいです。」

それが、人生のルール、礼儀みたいです。



2013/10/9

電気料金未納の為、電気が止まりそう、HPもできない。

HPて、何の意味があるのか、よくわからない。

自分の時代を、大きくわけると、「一人と自然」 幼稚園時代、走り回った菜の花畑

「アホと群れ、欲とがやがや」 学校、就職、ホテル、寺院、NPO等何ともやりきれない。

「病気との付合い」 不安との対峙

残った時間、感謝して生きる。

「 あたりまえを、あたりまえに。」 あたりまえでないことはしない。


2013/10/8

ザザ4階オアシスでパソコン触る

すごい勢いで頭に入る

自宅で、元城での作業能率とぜんぜん違う。

何故か、ハーフミラーの事務所が原因か

だれともしゃべらず、目と耳だけ

プログラム、英語、この際モノにしてみよう、

骨董サイト、ばさら、婆娑羅、自分の大切なモノを、大切な人にあげる、

もしくは、高く売る、

湯治場倶楽部として、あげる、寄付したい骨董は欲しい人にそのまま寄付、

売る場合は、最低仕入価格の2倍以上、ブックオフは10倍以上、

そこまであこぎになれない、決めた、倍返し、これでいこう。


2013/10/3

1964年、高校1年、アメリカン生活スタイルの浸透

1970・大阪万博覧、1990・バブル崩壊

2020年、73歳 何が起きるか、知ることが出来るか、

いい加減に生きた自分には、贅沢な考え

それでも、バブルよもう一度、それいけどんどん


2013/9/30

ホテル

「おもてなし2020」グランドさん30億でホテル開業 桜田さんの援助

地場鉄道、コンコルドに刺激受け、開発銀行に、前の30億に加えて120億 

当時売上27・29・33億と右肩上がり

数年平均 日\10,000,000 年 36億

銀行提出書類は 60億見込 

ホテル エグゼティブハウスで提出書類を作りました

オータニから来た営業部長さんもいました

バンカーとかいう開発銀行から来たおじさんもいました

ふたを開ければ42億

企画担当として責任感じます

なにを考え、何を調べて、何を企画していたのか、反省

ずるずると 今の売上は いくらかな

銀行さん、スズキサン教えて

責任のがればかりしないで

2020を記念して、ホテルの現状、見込、将来を見てみます。



2013/9/17

ホテル勤務時、縁あり浜松情報知る。

当時、浜信木村理事長と懇意の様子。当社の社長がはしりの様子。

周年記念のイベントに歌手小柳さんを呼び

記念品に、自分のレリーフの置物。

もらった人は、いったい何に使うのか。金貸しの思考か。

そういえば、当社ホテル先代ご夫妻の銅像はどこに。

開発銀行さん、オータニさん、スズキさん、東海銀行さん教えてください。

オータニの美術館に大谷さんのレリーフまだ置いてるのかな。

「 あたりまえをあたりまえに 」

2013/9/16

2007年2月 パレット紹介いただいて6年

何故か今はありません。

NPOのお手伝いさせていただき不信感で一杯です。

名誉がほしい、お金がほしい。

その為なら何でもやる。それがNPOの本質なのか。

もっとひどいのは、助成金だけ取得してなにもしない。

私のまわりにそんな組織ばかり。

「 おれおれ詐欺と NPOに気をつけよう。 」


2013年9月14日

元城事務所撤退する。

非常にスッキリする。

見栄の為に重い荷物をしょいこんだ自分の思考に反省。

人のことは、俯瞰で良く見えるのに、自分のコト 特に欲と見栄がからむと、

ほとんど見えない。しっかりと反省しましょう。

獄中の大道寺さんに笑われます。


2013年9月8日

HP 大学生に教えて頂き約半年 真剣さを持つため

1時間¥2000支払うことにする

思った以上の効果 真剣に勉強するようになる 時間は金である

賢者は一人 アホは群れる

66年 何とたくさんのあほと群れてきたか 反省

8月29日元城の事務所にカード入れたキーホルダー忘れる

午後6時 自宅につき気がつく 事務所は明日9時まで入室できない

5階の大家さん待つ 7時大家さんの奥様帰宅 

事情を話しスペアーかぎの使用依頼

最近アパートをミニミニ、正式にミニレッツに売却したため

かぎはそこにあり 私は関係ありませんとのこと

ミニレッツ 電話したところ 私どもはミニレッツの下請け業者であり

当番としているだけで ミニレッツの営業時間  明日10時過ぎに

身分証明するもの持参で会社事務所にいらいするよう言われる ひどいものだ

自分たちに責任がこないよう ただそれだけの対応

不動産業者 ミニミニグループの企業姿勢が垣間見えた

覚悟決め 自室の廊下に明朝まで待機する

お金はつり銭の3円のみ

のどの渇きに水道さがすが、見当たらない

脳梗塞後遺症 半身不自由のからだに不安が襲う

アパート周辺うろうろ はしご見つけ 2階の自室によじ登ろう

がたがた作業していると 昔知り合いの1階の知人が 「あぶないからやめたほうがいいよ」

全くそのとおり 半身不自由のみでは 転倒する可能性おおいにあり

人間の渇きの不安は理性を飛ばす

廊下で約3時間 何か逆に心底の解放感を感じる ホームレスとはこういうことか

死 とはこの延長にあるのか 楽しいことかもしれない

よく挨拶かわす4階の美人のお姉さん帰宅

お水一杯お願いすると

さっそく冷えた自然水のペットボトル戴く

ありがたい 朝まで大切に すこしづつ飲む 感謝一杯


2013年8月15日 11:30

中瀬公民館(協働センターという言葉大嫌い、役人のおもいあがりを感じる)にて約束あり。

遠鉄赤電「芝本駅」より歩く、小さな地図たよりに。

炎天下、てくてく 10分 20分 30分 かなりきつい

脳梗塞後遺症左半身不自由になって初めての行軍 40分 約3kなんとか到着

冷房の館内、T シャツ ジャケットが汗でグッショリ

エアコンが シャツを冷たくし 非常に気持ち悪し 文明の真の姿か

大きな樹の下で涼めば と心より思う いつのまにかエアコンに頼り、スイッチ一つで快適さを得る

それは 本当か それは 違う そんなものは すぐなくなる

孤独死 熱中症病死 回りの方の迷惑除けば 理想の最後だ

今回 逃がした 思い切り 生きてやる

最近感動した人 浅川智恵子

仕事とは何か 真剣に生きる目的を持つ


6月一五日曇一二時半元魚ハイツ

友人の提案にて、湯治場出版始める。「いねかねて自照はてなしつゆじめり。」  将司

真摯、自分には、六十六年縁のない単語である。足元の宝石を追い散らし、自己の単純欲に走る毎日。おそらく幼稚園に通う頃、山家中学校の桜がとても素敵でした。手を添えて幹に触った感触が残っています。学校のトイレで引揚者の家族のお母さんがよく首をつっていました。引揚げて全てを失い、トイレもない防空壕跡での生活。黄色の菜の花畑走り回り、風がほほをなぜました。オノヨウコのいう地球の動く音が聞こえたかもしれません

。いつも床屋のAこちゃんの後ろに隠れて暮らしていました。魚屋の甲斐君、お店のざるにお金が一杯。すぐ先の銭湯は一回2円でした。母と兄そして妹、歩いて約30分前後、立て替えたおこずかいを何度も母に確認しおこられ、あきられました。60年前のはなしです。高崎山の頂からゴジラが出てくる想像に怖いおもいをしていました。

「ホテル、お墓、そしてNPO。」

丸井が撤退したのが、浜松の衰退の始めでしょう。グランドホテル浜松に、職安の紹介で入社して半年以内、当時ヤマハの川上源一さんが元気な頃、戸田和夫さんも、松菱も、ヤシマパチンコ店も、榎本ビルのオープンとダブります。パレットて何、とやかく理屈並べても、安くコピー出来る。県から予算が取れる。それだけか、地下道であった大石さん反吐が出る。障害者を援助支援する、ユニバーサルという言葉と、障害者を食い物にして生きていく。どう違うのか、示して欲しい。、黄色いカラス。小学四年の時、九州別府より、父の実家、袋井、二軒家の納屋の2階に移転しました。袋井南小学校、歩いて一時間。通学時、よくいじめられました。いじめる人、

いじめられる人、それぞれです。生物の自然の生態を考えればどうでもいい話に思います。あまりに騒ぎ立てすぎではないでしょうか。細川ガラシャの語る、散るときを知りてこそ花は花なり、人は人なり。友人の関係で、介護施設、病院等に取材に4〜5年通いました。当時はバス路線
も不便、脳梗塞で後遺症の半身不随のからだでは、大変でした。でもこれまでの数々の人生無礼に関
しますと一言もありません。五木さんの親鸞、新聞小説読ませて戴いたとき、なんて五木さんて残酷な
方と恐怖を感じ、新聞社も、NHKも金のためならなんでもやるのかとガッカリ。記憶のなかでヘミングウ
エイは書けなくなった自分に絶望して猟銃を咥えたそうです。音楽も、小説もヒットとは何か、一つの愛
好グループの現象ではないのか。少なくとも辺見さんがだした「カン一揆」大道寺さんの句集の明快さが
見えない。お互い褒め合って金にしてるみたい。お金は死んだら使えないの、ベンツであの世に行けないの。どこかの紙屋のおやじのように、ゴッホと一緒に燃やして欲しいとかなりのアホがいました。少なくとも半身不自由の私は順調に推移すれば、チューブだらけで病院のベッドだと思います。書ける、考える
ことが出来る時に、第二の人生無礼者の私が増えないよう事実ありのまま記します。

「寿陵墓」お殿様、貴族等身分の高い人が、生前に自分のお墓をよういする。私が東京で約8年、都心近郷、八千代から藤沢まで6000以上の寺院を、墓石の営業するときの基本単語でした。東京は地方
からいらした方がほとんどで、お墓は実家のある故郷で、身内の誰かが継承しています。家を建て、
子供も一人立ちでき、あとは自分たちの最後の棲家を自分たちで用意する。自然といえば自然です。
でもここで、お墓、檀家、ある面考えると、江戸時代宗教の持つエネルギーに恐れを感じた幕府が何
とかエネルギーの拡大を防ぐため、宗教に金をにぎらせ衰退ようと考えた唯一の方法が寺請制度だそ
うです。現代における「寿陵墓」は、欲の輪廻かもしれません。えらいお坊さんは、死期を感じたら裏庭
に穴を掘り、体を埋めて、細い竹で息をして、飲まず、食わずで最後を迎えたそうです。
ねこを、からすを、象さん、一般庶民、みんなお墓はなかったのです。まして「寿陵墓」もう一度意味をみつめよう。

しやわせの ぎゅうぎゅうつまった さくらんぼ

ザザシティーの前のバス停で、ベンチに座ってバスを待っているとき、こちらに急ぎ足で向かう女性がふと気になり、じっと見ます。ゆたかなむねが、潮の満ち引きのようにゆったり動き、見ている人間もゆたかにさせます。こんな素敵な人が多かれば、痴漢も、アダルトも、ストーカーも、橋本さんもあんな発言をしなくてすむのに残念、近くにいらしたのでなにげなく真剣に見つめますと、おそらく40代、さりげないけどもってるものが凄い、いぜん紹介された金持ちのおばさんが自慢げにもっていたルイのバックをホイとかかえ、(よくみないとルイと認識できないモノトーン)素足にサンダル。生きててよかった。

エンドレス

貧血症状ありと主治医のお話、何でかな、胃カメラ、内視鏡検査、内視鏡はなかなか大変、若いころ勢いで飲んだビアガーデンのビールの量にちかい、ゲザイを飲んで十数回トイレに通い、報告する。看護婦さんも大変だ。6月中旬検査、一週間後検査報告、癌と思われるポリープあり、おそらく癌と思われる。写真を見せていただき私も、その不敵な形状をみて、癌だと思う。細胞検査、ポリープ摘出手術行うとのこと、脳梗塞後遺症、高血圧治療のため飲んでいる薬を4週間とめて実行。ポリープ7個あり、一つ一つ看護婦さん確認、読み上げ聞こえる、最後7つめ癌と思われるポリープ摘出、何か全身が軽く、非常な爽快感が充満する。病室に帰り気分爽快、楽しい気持ちでいて、退院の日、主治医より細胞検査結果、3週間後報告、おそらく癌、それも悪性進行癌でしょうと言われ悲しい、雨のひどい天気、一人かさにしがみつき自宅の布団で泣く。検査報告の日、きれいな下着に着替え、覚悟決めて病院待つ時間がながく苦しい。主治医より何度さがしても、癌細胞見つからず、よって本日でこの件は、無罪放免。うれしかった。その気持ちを何か表現したく風日記カレンダーを描く。あれから3年、あれが欲しい、これもしたい、不満と欲のエンドレスごめんなさい。

せんたく

たおれる前59年、せんたくの記憶がない、あえて言えば浜松リハビリテーション病院に入院し、リハビリを受けていたとき、おなじ患者のお母さんたちが、せんたく作業のリハビリをよく見ました。なんでこんな楽しいことを今まで自分でしなかったのか残念です。ホテルサラリーマン時代、エリートだった上司がある日変わり、出社しなくなり、自宅で専業主婦の仕事に専念しだし、家族が困惑されたことをおもいだします。今わかります。ビジネスと称して、ごみを作る作業の手伝いがいやになったと思います。毎日新聞の折り込みを見るのがすきです。これもやっぱりゴミかなと思われるものがおおいです。それは個々の価値観のちがいでしょう。三島さんが小説の中で新聞の活字がゴキブリがはっているように見えるとの表現がありました。せんたくにそれがないのです。


「 夏深し 魂消る声の 残りけり 」

将司さんが、獄中で永山則夫最後のことば、さけびを聞いたときの作品だそうです。反省、後悔、くやむ、星の数ほど、いまだに人様にめいわくかけている始末。罪には罰を、薔薇には棘を、でも部屋の隅で泣いては暮らせない。今の自分にできることなんとかやるしかない。明かない闇はない、でも夜明けは必ず闇をむかえます。 井の中のかわず大海を知らず、しかし天の高さを知る。 うそをつかない 真摯のずっと手前これから始めよう。


今日でおわり

酒をやめ、音楽をけし、テレビをとめ、ラジオもとる。幼稚園のころの環境ににせてみる、うすぎたなく年を重ねてそれはむりか、そうだ京都にいこう、そうだあの世にいこう、不義理をした友人、親類、両親、怖い顔してまちかまえている。どうしよう障害者のコント大会があるそうだ。自分の障害をいかにぎりぎり笑いに運ぶか。おもしろい、深刻ぶって、かわいそうぶって、ひょうめんだけでたすけあって、すべておわりにしよう。そうだあちらにいこう。

世界史の越境に向けて

??柳田国男から吉本隆明までーー 

宮内広利 
はじめに

わたしたちの言葉は羅針盤をなくしたかのようにいつまでも表現の海を漂っている。曰く、「停滞」、「解体」、「挫折」、「希望」etc.そのどれひとつ、わたしたちの心の尖端を引っ掻くことのできないもどかしさを抱えている。そのような宙づりにされた言葉は、口にした途端、もしかしたら、ひとびとの微妙な心理にさえも反作用し、生活事実として、皮膜のように本人に覆いかぶさって、さらに、心を内向させているのではないか。むろん、希薄な言葉の消費力に対しては、郷愁もロマンも手をさしのべない。一口に停滞感というけれど、それが噛みしめるべき生活事実の、どのような深みで、また、広がりで抽出すればいいか、すでに分からなくなっているからだ。そのとき、排出口のない鬱屈と管理されすぎる社会の隙間に、救われない悲劇として「猟奇」の影がしのびよる。でなければ、もし、この、泥沼のような内面世界を脱けだす道しるべがあるとすれば、幾重にも折り重なった化石のような言葉の中から、自らが吐き出した「停滞感」という言葉そのものの根源を解きほぐし、何回目の停滞感だったろうかとひとつひとつ指折り数えるよりほかない。それこそがほんとうの自己史を探すための糸口であり、世界史を身の丈にあった歩幅で切り取ることが可能な時間でもある。だが、ともすれば、いつもここで私たちは躓く。

は特定の個人にたいする類の冷酷な勝利のようにみえ、そして両者の統一に矛盾するようにみえる。しかし、特定の個人はたんに一つの特定の類的存在であるにすぎず、そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。≫『経済学・哲学草稿』マルクス著城塚登・田中吉六訳

マルクスは、たとえ特定の人間が特殊な能力をもった個人であり、個体的に優劣がつけられるにせよ、その同じ程度において、彼は思惟する限り、社会の観念的総体性において現存しているので、社会的な関係や生命活動の中に現存しているとした。だから、「死」というものが、そういう社会的現存性と矛盾し、ある場合には、無視しようとしたとしても、類的存在をまぬがれない、そういう個と類の二重性の統一としてのみ人間は現存しているとみなした。

いつの時代でも英雄豪傑はいたが、彼らは死の矛盾を抱え、それを人に語り、個体性を強調しつつ、死を恐れながら一代で何事かをなそうとし、あえて「死」を荘厳に飾りたてようとした。「死ねば死にきり」と声高にいう奴に限って、せいぜい50年や100年を測る個体性の意味をふれまわり、時に、翌日にも忘れられそうな平凡な死を軽蔑した。それに逆らうように、柳田国男が「常民」に込めた思いは、幾分、このようなマルクスの見方と重なる。柳田における「常民」性とは、「時代を同じくする国内同胞の多数のもの、千人の中の九百九十人までが、既に確信しもしくは予期しているところのもの」を抱懐する人々を指していた。ただ、柳田においては多数というのみではなく、歴史性と人間との関係において、次のように媒介されていた。

≪学問は本来至って寂寞なものである。ことにかような人を見る学問に至っては、久しい間の一国の同胞と、自分らばかり対立したような地位になって、国民が「見る人」と「見らるる人」との二つの組に分かれなければならず、自分は彼らの群に混じて、浮かれたり酔ったりすることができなくなる。いわばこれは大昔からもっていた太平無為とのお別れである。もっとも今一段と社会が意識的になれば、ふたたびこの差別もなくなって、同時にまた見られるに値する古代からの伝承も消え去るであろう。≫『郷土研究ということ』柳田国男著

 柳田は、マルクスと違って、個と類の矛盾を人間の本質的なものとは解していなかった、その限りで「常民」概念を紡ぎだすことができた。この柳田に対して、「飢餓」や「貧困」、「差別」、「戦乱」、総じて「稀少性」あるいは「階級」とかの言葉を反措定することもできた。事実、戦後すぐの頃、イデオロギー的な批判ではなかったが、柳田民俗学は戦争責任論を問われたことがあった。益田勝実は、柳田が空襲下で『先祖の話』を書き表わし、「七生報国」の遥かな歴史的価値を考察する一方で、徴兵された実子の帰還を日記で願っている矛盾を指摘し、『先祖の話』で書いていることと、生きて自分の子供の帰還を期待している心情の裂け目に筆が届いていなかったのが、柳田の民俗学のアポリアではないかと指摘した。その上に立って、彼の民俗学が、一回性としての戦乱や貧困、飢餓に伴う具体的な農民の悲喜の心情や、生活にとって欠かせない年貢の歴史性などを考察の対象外においたのは、「常民」概念の狭さに起因していると疑義をはさんでいる。もし、平民の反省の学問を挙げる意図を中心にみれば、戦争に好意的ではなかった心情と実際の擦り合わせを怠ったギャップが、次第に戦争に対する見通しを見失った原因ではなかったかとの問いかけがなされ、次のように述べている。

≪柳田国男自身の心中にとぐろをまいていたあの戦中の<疑い>と、その口々に大声で語られる戦後の<疑い>との関連、また<疑い>を抱く自己と、口には少しも出さない他の国民大衆との関連の問題、すなわち、「涙もこぼさずいさぎよく出て行く者が多かった」という観察は大いに正当であろうが、はたして、それがどのようないさぎよさなのか、いさぎよいものばかりなのか、と自分の<疑い>の真実性に発して、<疑い>の友を発見していけなかったところに、柳田の問題がある。≫『「炭焼日記」存疑』益田勝実著

ここで益田は、戦後、大戦に対する反省がひとびとに一般化した時点で、「国民共同の大きな疑い」をはさむのは容易だが、戦中において微かな異和感を対象化し、それを共同の疑いとして追及しなかったのは、柳田自身と「常民」の関係を相対化しなかった民俗学の立場が、とおりすがりの旅人の観察、採集でしかなかったことを意味し、主体性喪失の学であると断定している。こういう益田の主張は、当然、柳田が「常民」という概念をどのような時間的幅で取り出したかを考えていないところから出る疑問である。なぜなら、柳田が、戦中期、心の中に萌した疑いと、「家」を中心にした論議は、時間の幅を長くとれば、決して矛盾するものではないとおもえるからだ。おそらく、益田は、戦後、皆が戦争に対する反省を当たり前のように受け取った時点で、戦争批判するのは意味がないので、心の中に留めた時間に遡るべきだと言いたいのだろうが、その間に流れる時間は、せいぜい「家」の一世代の歩幅にすぎない。柳田が、「家」という場合、先祖から折りたたまれた記憶の束であって、それに比べれば、益田がいうような一世代ほど遡って目に映る国民共同の疑いの連帯など、たかが知れていた。ある意味、柳田が戦前、戦中をつうじて「家」のはざまで寂寞感をかこったところにこそ、ほんとうの意義があった。

なぜなら、柳田の「常民」概念は、そういう疑いを持つもの持たないもの、いいかえれば、「見る人」と「見られる人」の矛盾がなくなる未来に照らしてこそ、その有効性を持っていたと考えられる。その時点で、柳田にとって振り向くべきものの裏側に、同時に、たどりつくものとしての理念として「常民」性が含まれていたからである。この時間に対する「理念」がなければ、おそらく、書き物としての資料の過重さや、文字のあるところでないと歴史はないかのごとく考える従来の歴史学をおおきく覆すことはできなかったに相違ない。柳田が、「見る人」という自覚に寂寞さを感じたことが、近代の自己意識の始まりであり、それをどう始末したかという経路こそが、おのずと、「起源」への方向性を開くものだった。

近代の歴史観の礎を築いたのはヘーゲルだったが、彼によれば、歴史は理性自身が絶対の究極目的である以上、自らに手を加え、その活動や生産を外にあらわすことにほかならず、その現れが、自然的宇宙であり精神的宇宙、つまり世界史だとした。そして、そうした理念だけが歴史を見る栄光に報われるとし、それを歴史哲学と呼んだ。だが、自分自身に還る理念は、当たり前のように、「見る人」の側の歴史のみで成り立っていた。

しかし、いまもそれを相手に格闘している「近代」にも、ついこの間までは、歴史の感触を、「起源」の問題としてとらえ、折り畳んだ時間を座布団のように横に崩すことができると信じられた瞬間をもっていた。つまり、わが国が近代の坂を登って行こうとしたとき、柳田国男が民俗学を出発させたのは、山地にこめた次のような感慨が出発点にあった。

≪ここにかりに『後狩詞記』という名をもって世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、もちろん第二期の狩についての話である。言わば白銀時代の記録である。鉄砲という平民的飛道具をもって、平民的の獣すなわち猪を追い掛ける話である。しかるにこの書物の価値がそのために些しでも低くなるとは信ぜられぬ仔細は、その中に列記する猪狩の慣習がまさに現実に当代に行われていることである。…中略…山におればかくまでも今に遠いものであろうか。思うに古今は直立する一の棒ではなくて、山地に向けてこれを寝かしたようなのがわが国のさまである。≫『後狩詞記』柳田国男著

 ここで山地に向けた矢印には焼畑農業が太古から引き継がれ、歴史の現在に刻印を残しながら、共時的に並べる手法を柳田が獲得しようとする経緯が破曲線で示されている。柳田の描いた歴史の今昔は、中世の古武士が阿蘇の荒漠たる火山の麓で、弓を引いて野山の鳥獣を追い掛けていた時代からはじまって、鉄砲を手に入れた土民が、糊口の種に鹿を絶滅まで追い込むまで、各時代をこえて、次第に、土地の名目と猪狩りの作法の詳細と伝聞の範囲を広げていきながら、山の民が「山の神」を恐れ、射止めた猪の心臓を山の神に献上する祭文にまで辿りつく。このときすでに、歴史の区分けをぬきにして、わが列島の歴史は山から始まったという信仰や伝説が、横へ横へと延びていく柳田のフィールドワークの方法は踏み固められた。ミシェル・フーコーは日本の柳田国男であるというわたしの確信は、この横へ横へと流れる特異性に求められる。

1 常民と常世信仰

一方で、言葉に時代への有効性があるかのように考えることを拒絶し、文学の信仰起源説を唱え、言葉の世界に通時的に海の郷愁やロマンを持ち込んだのは折口信夫だった。言葉が信仰なくしてどうして伝承され記憶できるのか、というのが近代的な切り口をもって示したその根拠だった。

≪私の考へを言ふと、刈り上げ祭りと、新しい年のほかひとは、元は接続して行はれてゐたのである。譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月、節分と立春と言つた関係で、前夜から翌朝までの間に、新甞ほかひとが引き続いて行はれた。まれびとは一度ぎりのおとづれで、一年の行事を果したものであろう。其が時期を異にして二度行はれる様になつてからは、更に限りなく岐れて、幾回となく繰り返される様になり、更にまれびとなる事が忘れられて、村の行事の若い衆として、きぢの儘に考へられ、とどのつまりは、職業者をさへ出すことになつたのである。≫『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著

ほかふほかひとは、神讃えるという謂である。まれびとの訪れが二度になった理由は、祖先の有力な種族が南島から渡ってきたことに求められる。もともと、これらの南方種は熱帯で二度の秋の刈り上げをしていた。その名残が土地の農業暦を産み出し、のちのちの帰化種によってもたらされた陰陽道に影響されたものと考えられている。

≪此まれびとなる神たちは、私どもの祖先の、海岸を負って逐うて移つた時代から持ち越して、後には天上から来臨すると考へ、更に地上のある地域からも来る事と思ふ様に変つて来た。古い形では、海のあなたの国から初春毎に渡り来て、村の家々に、一年中の心躍る様な豫言を與へて去つた。此まれびとの属性が次第に向上しては、天上の至上神を生み出す事になり、従つてまれびとの国を高天原に考へる様になつたのだと思ふ。而も一方まれびとの内容が分岐して、海からし、高天原からする者でなくとも、地上に属する神たちをも含める様になつて、来り臨むまれびとの数は殖え、度数は頻繁になつた様である。≫

『古代生活の研究』折口信夫著

折口のザックリした日本人の精神史を凝縮すれば以上のとおりだが、その過程には住民の微妙な喜怒哀楽の歴史が潜められていた。もちろん、わたしたちの古代研究が、単に、好事家の知識に終わらせないためには、この歴史の中の人々の感情の襞にどれだけ迫れるかという問いを含んでいなければならないことを折口はよくわきまえていた。柳田国男は、その呼び名そのものが比較的新しいものと考えているが、折口にとって、まれびとがそこからやってくると考えたトコヨノクニとはいかなる処なのか。

≪思ふに、古代人の考へた常世は、古くは、海岸の村人の眼には望み見ることも出来ぬ程、海を隔てた遥かな国で、村の祖先以来の魂の、皆行き集つてゐる處として居たのであろう。そこへは海路或は海岸の洞穴から通ふことになつてゐて、死者ばかりが其處へ行くものと考へたらしい。さうしてある時代、ある地方によつては、洞穴の底の風の元の国として、常闇の荒い国と考へもしたらう。風に関係のあるすさのをの命の居る夜見の国でもある。≫『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著

≪常世往と言ふ古事記の用例は、まづ一番古い姿であらう。「とこよにも我が往かなくに」とある大伴坂上郎女の用法は、本居宣長によれば、黄泉の意となる。此は確かさが足らない。が、とこよをは楽土とは見て居ないやうで、旧用語例に近よつて居る。常夜・常暗など言ふとこは、永久よりも、恒常・不変・絶対などが、元に近い内容である。ゆくは続行・不断絶などの用語例を持つ語だから、絶対の闇のあり様で日を経ると言ふことであらう。≫『国文学の発生(第三稿)』折口信夫著

常世とは「闇の国」であり、地下あるいは海底の「死の国」、「夜見の国」と考えられていたから、そこから来臨する常世の神を恐ろしい鬼と考えることもできた。だから、村落生活のために土地や生産、建物や家長の生命を祝福し、幸福を運んでくれるのだが、裏腹に、恐ろしいから早く立ち去ってもらいたいと考えたとしてもおかしくない。のちのち、そこには、外来思想を交えてさまざまのバリエーションが生じたが、仏教など外来思想によって上辺は変化しつつも、それと違った意味にその概念を育てるというのが、わが国の外来文化に対する接触の仕方であり、常世信仰の受容の形式自体は変わっていない。折口のあまりに文学的の語り口の中に含まれている言葉は、琉球神道が内地の神道の一つの系譜、あるいは、古神道の姿をよく保存しているとみなした上で、琉球宗教のにらいかない(儀来河内)が死の島であったことを根拠にしている。これは柳田が竜宮伝説を取り上げたときに指摘したニルヤに照応する。折口の眼には、琉球諸島の現在の生活は、萬葉びとの生活を、そのまま髣髴させると映った。また、萬葉人以前の俤さへ窺はれるものが決して少なくない。そればかりか、古代生活の研究に、暗示以上のもっと露骨な、そのままをむき出しにしている場面がしばしばあると考えた。そういう場面の印象は、次のような空想を交えずにはいなかった

≪一体沖縄の島々は、日本民族の核心となつた部分の、移動の道すぢに遺つた落ちこぼれと見るのが、一番ほんとうの考へらしい。内地にあつた古代生活の、現に琉球諸島に保存せられて居るものは、非常に多い。さすれば、此南島にある民間伝承の影が、一度は、我々の祖先の生活の上にも翳してゐた事も考へられなくはない。≫『信太妻の話』折口信夫著

では、ここで、なぜ、琉球諸島だけにそれが保存されていたのか。こう問いかけるとき、列島を縦断する時間が、まるで積み木のように重ねられているかのように考えられる。しかし、いわゆる日本人が環太平洋の島々から橋のように南島をつたってやって来る前に、わが列島には人っ子一人いなかったというのも空想であるし、日本語の祖語がなかったというのも憶測にすぎないのだが、折口には、ただひとつ、「移動」に分け入る方法が欠けている。もちろん、柳田や折口の言葉で言えば、「先住民」と後からやってきて列島に住みついた人々の信仰や経験の時間差がこれを補っているかに見えるが、ただそれだけでは曖昧さがともなう。折口は、「先住民」という実体を必要としたが、柳田の場合、それは可変なイメージで取り上げられているに過ぎない。そうでなければ、おちこぼれなどという言葉は意味をなさないはずだ。なぜなら、反対に、内地の古代生活は、なぜ、保存されず、こうもちがったものに変化したかを問えばすぐ分かる。しかし、今はそれを問わない。なぜなら、それは折口や柳田の方法の根幹に関わることであり、ただ、二人のその原イメージの保存のされ方の相違が大切だからだ。折口のこういう原イメージを誘惑したのは、豊後から琉球列島に向けて逆に辿った柳田国男の旅行記の次のような想像世界である。

≪世界の海の荒れ狂ふ日には、餘波は寄せ来つて此千瀬を打越した。島ばかりが独り平穏なるアトールのやうな世中を、維持して行くことは不可能であつた。空と海との縫目の絲も、時あつて綻びざるを得なかつた。日を経て南の風の吹く頃は、遥かなる常夏の国から椰子の実が流れて来る。之に細工をして瓢に代へ泡盛の芳烈なるものを掬んで楽む中に、次第に島人の心は廣くなつた。沖に出て見ると渡り鳥はどこまでも飛んで行く。雲より外には又幽かなる次の島の影があつた。小舟にクバの葉などの帆を掛けて、知らぬ島々を見に往く者は、やがて又大きな船を誘うて戻つて来る。岡に登つて送る者待つ者、我と海上に漂ひあるく者も、いつと無く此千瀬の白い波を、眺めては憂苦するやうになつたのである。≫『海南小記』柳田国男著

そして、柳田国男は、列島人種の起源を南から北上したと認めた。その宿命的な流浪の旅を環太平洋の点在する島々の中に思いをめぐらした。柳田の発想は、この「沖の島」に込められた。

≪少なくとも此等の沖の小島の生活を観ると、それは寧ろ物の始の形に近く、世の終の姿とはどうしても思はれぬ。即ち大小数百の日本島の住民が、最初は一家一部落であつたとする場合に、與那国人の今日の風習が、小島に窄んだから斯うなつたと見るよりも、やまとの我々が大きな島に渡つた結果、今日の状態にまで発展したと見る方が、遥かに理由を説明しやすいように思はれる。北で溢れて押出されたとするには、平家の落人でも無い限は、こんな海の果まで来さうにも無いが、南の島に先づ上陸したとすれば、永くは居られぬからどうかして出て来たであろう。さうして取残された前の島の人を、必ずしも屡々想ひ出すことは無かつたかも知れぬ。仮に此推測が当つて居たとすれば、我々は誠に偶然の機会に由つて、遠い昔の世の人の苦悶を、僅かながらも此あたりの島から、見出し得たことになるのである。≫『與那国の女たち』柳田国男著

2 巡遊伶人

折口は、その信仰がわが国の文学の発生の根拠をなしたとみなしている。それは現在あるがままの本質とは全く異なった経路を辿った。文学は古代の生活の極めて遠い原因から産まれたととらえられる。折口は、文学発生の動機を「かみごと」(神語)に求めた。そして、抒情詩よりも抒事詩が先行すると主張する。抒事詩の発達において注意すべきは、その人称の問題である。

≪一人称式に発想する叙事詩は、神の独り言である。神、人に憑つて、自身の来歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡の恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。而も種族の記憶の下積みが、突然復活する事もあつた事は、勿論である。其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡の口を衝いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文要素が加つて居た。…中略…此際、神の物語る話は、日常の語とは、様子の変つたものである。神自身から見た一元描写であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに発想は一人称に依る様になる。≫『国文学の発生(第一稿)』折口信夫著

こうした呪言が三人称風になるにつれ叙事詩化し物語を分化させる。そうして、種族生活に関わりの深いものを語り伝えていくうちに、暗誦と曲節の熟練のひとつの様式として、巫覡が分化し、世襲制の語部(かきべ)という職業が発生した。郡ほどの大きさの国、邑と言ってもよい位の国々が、国造、縣主の祖先に保たれていた。彼らは、現人神の神主としてそれぞれかきべの民をもっていた。もともと高級巫女は権力者であるか、権力者の近親であった。高級巫女は神の嫁であり、まれびとは嫁(巫女)の神がかりをつうじて呪言を発する。最も古い呪言は、神託のまま伝習せられた信仰のまま、神の断案、約束、強要を意味した。

≪常世のまれびとと精霊(代表者として多くは山の神)との主従関係の本縁を説くのが古い呪言である。呪言系統の詞章の宮廷に行はれたものが一般化して、詔旨(宣命)を発達させた。庶民の精霊だけでなく、身中に内在する霊魂にまでも、威力を及すものと信じられて居た。…中略…詔旨は、人を対象とした一つの祝詞であり、やがて祝詞に転化する途中にあるものである上に、神授の呪言を宣り降す形式を保存して居たものである。法令の古い形は、かうした方法で宣り施された物なることが知れる。≫『国文学の発生(第四稿)』折口信夫著

この神の呪言の威力は永久に亡びぬものとして大切に秘密に伝誦せられていた。「天つ祝詞」と称せられるものがそれである。天つ祝詞には、自らの素性から国産みと山川草木、日月闇風を生み食物を作り出した理由を語り、人間の死の起源や鎮魂法までも説く。また、火の神の来歴からそれを防ぐ方便まで、その精霊の弱点を示し土地を鎮静しようとするものである。それは時と場所とを変え、新築のときであったり、1年の農作業の祝福であったり、時節の移り変わりを教えにくるのである。やがて、祝詞の口授者自身が神になることもあったらしい。また、祝詞には占いと関係するものが多くなる。必ず、祈願にはどうなるかという問いを含むからである。

また、呪言とは、土地の精霊との直談判であり、神が精霊にかけあうようにも見える。ここでは、常世のまれびとの威力がその土地の先住者たる土地、物の精霊を圧伏した来歴を語り、昔の神と精霊の関係を精霊の記憶に上らせようと、それぞれ常世神と精霊に扮した神人が演舞し、結局、精霊は村落生活を脅かさないことを誓うことになる。この代表者として精霊が考えられ、のちに「山の神」と称せられることになる。これは神がシテ、「才の男」がワキの対立関係が見られるものだ。「才の男」は神の宣託を人間の言葉に翻訳し、それを人の動作にコピーする役割を道化役のことだ。こうした道化役がでてきておどけを行うのだ。口答えをするこの「才の男」はもともと人形(偶人)であった。神楽の間に偶人が動いてより納得させようとした。道化役をもどきというが、もともとはこの偶人のしぐさから来た。偶人は精霊の代表者であり、身の近くに置いて、穢禍を吸い取る偶像であった。「才の男」は土地の精霊に擬されていた。このもどきの系統が千秋萬歳に発達した。

考古学者の寺沢薫は、弥生人の祭りには二つの顔があったといっている。ひとつは、作況を占い、雨を乞い、害虫や風雨を避け天地を静める祭りであり、穀物に宿る恵みの霊を禍から防ぐもので、地霊と穀霊という二つの精霊の観念が生まれる。それだけではなく、祭りは、葬送に関わるもので、死者の再生を願い祖先の霊が共同体に安寧と秩序をもたらし、守護霊としての祖霊への畏敬を含む別の側面をもった。この二つはわたしの言葉でいえば、神の観念と霊魂思想の結びつきである。その上で、寺沢はその祭りの観念を、祭器としての青銅器を使って説明している。第一は青銅器が権威の証になるほどの貴重品であったこと、第二に金属のもつ荘厳さがその属性において霊力を持つと考えられたこと、第三は青銅器を作る作業が錬金術師の魔法に似た効果をもつことである。だが、こういう言い回しはあまりに機能的でにわかには信じられない。これではほとんどプロテスタンティズムに近いではないか。それはシャーマンの役割の理解に如実に現れる。彼は戦うシャーマンと穀霊を守るシャーマンの二様性があると言う。

≪倭人の四季を思い出してほしい。春の訪れは田んぼへの白鷺の飛来から始まる。弥生人の心の奥底には、あの白い鳥がイネの霊を運んできた、という思いがあったのではないか。鳥装のシャーマンのマツリは、その観念を形にしたものだ。田んぼのイネは夏にむけて生長する。秋の実りまで台風、洪水、病虫害、穀霊に災いをもたらす諸々の悪霊、邪気は避けねばならぬ。銅鐸は、春のマツリが終わっても、水田のみえるムラの祭場(蘇塗のような場所)で稲魂の安全を見守ったはずだ。白鷺がこの間、つねに水田に居着いて稲魂を見守ったように。秋の収穫祭が終わると、初穂は小さな祠(穂倉)の祭壇に祀られ、稲穂がついた種もみ用の穂束は神聖な祠(穂倉)に安置される。しかし弥生人の観念の世界では、稲魂は白鷺に連れられて、来年の春まで再び常世へと帰るのである。それはまさしく、去来するカミなのだ。現実と観念との錯綜のなかで、稲魂が逃げて二度と来ることがない、ということだけは避けなければならない。銅鐸はこの期間、今度は祠のなかで種もみの稲魂が逃げないように呪縛し、見守っておかねばならぬ。≫『王権誕生』寺沢薫著

この例証として挙げているのは、辟邪と呪縛という呪力を秘めている銅鐸の模様の二面性である。しかし、これは信仰そのものが対象性として明白に意識されており、そのシャーマニズムは後期のものにちがいない。なぜなら、折口のような仮定をすれば、常世神の信仰が次第に薄れてきて、もともと常世神の受け手であったにすぎない山の神がその代りを務めるようになり、一人称であったシャーマンの言葉が、同類である地の精霊に対して向かうことになるような変質をくぐりぬけたからである。これは銅鐸の神の表現が三人称になったことに裏づけられている。寺沢は銅鐸に悪霊と戦うシャーマンや鳥装のシャーマンが描かれていたり、また、鳥取県淀江町稲吉角田遺跡の大壺にマツリの全容が描かれていることから、古代信仰の跡が辿れると思っているらしく、それによると船に乗った常世の住人がやってきて、「蘇塗」と呼ばれる柱と梯子の異常に長い祠があり、さらにその奥には高床倉庫があり、かたわらに二つの銅鐸がみえる。そのそばで地霊とみられる動物が見ているという構図である。しかし、これは既に祭りの自意識が「記述」され、発展したところに成立しているのであり、いわば、原初の祭りの意識そのままではない。柳田の言葉を借りれば、すでに、「祭」から「祭礼」に変わっているものだ。

そして、もっと遡れば、神がシテ、「才の男」がワキの対立自体、「記述」されない歴史の闇を潜るなら、さして古いものとは言えない。なぜなら、台風、洪水、病虫害、穀霊への戒めは、すでに人間が対象化した自然にすぎないからだ。農耕が始まり豊凶を占い、祈る儀式は、自然の息遣いに息をひそめるような「畏怖」とは言えないからだ。ここでもし、段階という概念を使うとすれば、わが列島にはじまる縮小した世界史の概念という限定をつけざるをえない

同じように、柳田が民謡や口碑ばかりでなく、取り上げた民衆が言葉なしに表す身振り、笑顔、泣くことなど感情の表現も含めて日々作っている「限界芸術」という概念を借りて、鶴見俊輔は次のように述べている。

≪こうして、柳田国男は、純粋芸術・大衆芸術をふくめて芸術一般の起源を限界芸術にもとめ、限界芸術の集大成を、それぞれの時代の祭に見た。祭は、集団全体が主体となって、みずからの集団生活を客体としてかえりみて、祝福することであり、平常はアクセントなく流れている集団生活が、このとき短い時間の中に凝集され、一つのモノの形をとる。…中略…大正・昭和期における祭の衰えは、祭が演じる者と見る者とに分離してしまったことからくる。≫『限界芸術の研究』鶴見俊輔著

このような考え方ができるのは、鶴見の「限界芸術」が、もともと衣食住を確保する労働の倍音として始まっていることを前提にしているからだ。それは大衆芸術・純粋芸術の原点として、その後の芸術の成立の土台となる。そして、それは、折口が示すかきべが神との関係が次第に薄れて、芸術としての第一歩が踏み出される段階に照応する。邑、家、土地から遊離して漂泊する一群のひとたちが生まれ、神事としての堕落は芸術の開放になった。神人が豪族の庇護を失うのには理由があった。ひとつは大和本村の神を受け入れたこと、また、仏教の受け入れに順応できなかったことなど「神々の死」があげられる。「その神々のむくろ」を護ることで脱出口を求めてうかれびとは後から後から出てきた。やがて、政教を引き裂く大化の政が行われる。

≪政教を引き裂く大化の政の実効のまづ挙がったのは此種の村々であらう。而も何かの理由で、国造と関係のない者がとつて替つて郡領となつたり、さうでなくとも中央から来た国司が、地方の事情を顧みないで事をする場合には、本貫に居る事が、積極的に苦しみの元であつた。日向の都野神社の神奴は、国守の私から、国司の奴隷とせられた。神の憤りは、国司に禍を降す代りに、神奴の種を絶されるに至つた(日向風土記逸文)。此は国造の神が、郡領に力はあつても、倭から置かれた官吏には無力であつた事の、悲しい證據である。と同時に、恐らく下級神人の二重奴隷と言ふ浮む瀬のない境涯に落ちた事を見せて居るのであらう。≫『国文学の発生(第二稿)』折口信夫著

 彼らは沢山の家族団体を引き連れて亡命し流民となり、巡遊が新しい生活様式になる。かきべのほか、折口の言う「乞食者」とは、土地に結びついた生業を営まず、旅から旅に人に養われながらほかいなどした神事をやることを職業化し、やがてそれが芸道化したのがほかひびとであり、これを「巡遊伶人」と呼んだ。彼らの存在は、祝詞から叙事詩への転化と照応し、その叙事詩に合わせて鹿や蟹の身振り舞うものまね舞踊が付け加わった。これは精霊に対する威嚇の意味をもっており、この舞踊がもともと神事に深い関係をもったことを窺わせる。やがて、叙事詩から抒情詩へ転化するには創作意識の発芽が必要だった。人であらわせば、柿本人麻呂の時代である。この時代、語部(かきべ)とほかひびとが融合し始める。

神社制度が確立し、語り部の仕事が下級の神人に手に移っていき、地位が低下するにつれて、落伍したものが、ほかいびととなり職業化する。これには後ろ盾をなくした神人や零落した流離生活を始めた旅人である。そして、ほかひ語部(かきべ)は相互浸透して行く。もともとほかいとは無縁であった叙事詩がある村から他の村に語られ、持ちまわされ、叙事詩は散布されるようになる。全国に記紀、万葉、風土記の中に伝説の分岐したものが見られるのは、このためである。柳田は、この担い手の実相を次のように述べている。

≪クグツまたはサンカが山野の竹や草を採り、わずかばかりの器物を製作してこれを販ぐは、かかる大種族の生計の種としてまことに不十分なり…中略…しかしながら遠く古代の状況に遡りて見れば、彼等はこのほかにまだ相応の収入の道を有せしなり。その一はすなわち祈祷にして、その二はすなわち売笑の業なり。しこうして歌唱と人形舞わしはまたこれに伴える第三の職業なりしなり。時勢の変易とともにこれ等の業はすでに分化して一々の専門となり≫『「イタカ」及び「サンカ」』柳田国男著

 折口は、柳田を援用して、ジプシー同様の生活をしていたサンカ、傀儡子(くぐつ)とその女性版である遊行婦女(うかれめ)に注目して、巫と娼を兼ねる彼らが先住民の落ちこぼれで、各地を流れわたっているうちに定住したうかれびとの原型とし、ほかひびとほかひの叙事詩化の過程において、彼らと交差するとみなした。「巡遊伶人」は叙事詩をほかひしているうちに、やがて歴史の中にはいるようになると自然と変形され、聞くものの心を誘うものとして悲恋を謡うものにさえ、修正が加えられて民間伝承になる。

≪だから、叙事詩の拗れが、無限に歴史を複雑にする。更に考へを進めると、続日本紀以降の国史に記されて居る史実と考へられて居る事も、史官の日次記や、若干の根本史料ばかりで、伝説の記録や、支那稗史をまねた当時の民間説話の漢字書きなどを用ゐなかつたとは言はれない。≫『国文学の発生(第二稿)』折口信夫著

また、次のようにも述べられている。

≪古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人に神憑りした神の、物語つた叙事詩から生れて来たのである。謂はば夢語りとも言ふべき部分の多い伝への、世を経て後、筆録せられたものに過ぎない。日本の歴史は、語部と言はれた、村々国々の神の物語を伝誦する職業団体の人々の口頭に、久しく保存せられて居た律文が最初の形であつた。此を散文化して、文字に記したのが、古事記・日本紀其他の書物に残る古代史なのである。≫『最古日本の女性生活の根柢』折口信夫著

3 常世神と日の神

その叙事詩の口承民潭には、数々の変奏が加えられながら原型を失ったものも少なくないが、折口の言う直感によって透視されないことはない。

≪垂仁天皇の皇子ほむちわけが、出雲国造の娘ひなが媛の許に始めて泊つて、其様子を隙見すると、をろちの姿になつて居たので遁げ出すと、媛の蛇は海原を照して追うて来たとある。此話に出産の悩みをとり込んだのが、海神の娘とよたま媛が八尋鰐或は、龍になつたと言ふ物語である。此まで重く見られた産の為とする考へは、寧、後につき添うた説明である。おなじ事はいざなぎの命いざなみの命の離婚の物語にも、言ふ事が出来る。見るなと言はれたのに、見られると、八つ雷(雷は古代の考へ方によれば蛇である)が死骸に群つて居た。其を見て遁げ出した夫を執ねく追跡したと言ふのも、ひなが媛の話と、ちつとも違うてゐないではないか。≫『信太妻の話』折口信夫著

これらは国の違う者同士の結婚は、妻の本国の神に仕える期間は夫にも知らせない、もし、この誓いを破ると互いの仲は壊れてしまうと民潭にはしばしば出て来る。「異族の神」を苦々しく眺める心持がこのような物語を発生させた。折口が例証として挙げているのは、琉球女性が母から伝わり、嫁入りには必ず持っていくという香爐である。これは女性だけが祀る神を意味し、夫や子にさえ拝むことを許されていない。ここから、折口は、もともとの原型に遡り、村々を呪縛したトーテミズムの禁忌にまで対象を拡げている。トーテミズムの対象は、動物だけでなく、植物も空気も風もそれぞれの村の信仰生活の第一歩であった。

もし、折口の言うように、琉球人が日本人の落ちこぼれだとしたら、では、このような習慣が本土の日本人の中にも深く根づいていないのか。答えは二つしかない。日本人と呼ばれる人たちが外族に根こそぎ侵食されて、このような信仰を失ってしまったか、それとも、日本人という一括して呼びならわされた民族概念を今一度解体させねばならないということだ。そして、民族概念を解体するのには、極端に種族の概念に近づけるか、あるいは民族内共同体に引き寄せるかしかないとおもわれる。これは古代史を取り扱う根本的な方法の問題である。

前者について、柳田は、沖縄の島々の神道が、中国大陸からの影響がいたって少なく、仏法も無力であり、我々の大和島根の信仰から、中世の政治や文学の与えた感化と変動を引き去れば、そうであったような生活実態が垣間見れるという。その例として柳田の挙げているのは、第一に女性のみが祭りを支えていることである。つまり、巫女を通じて神の神託によって神の本意と心持を理解し、それに基づいて信心をしていることである。その神が祭りの祈りの際、出現し、その場所を自ら選定されたところを「御嶽(オタケ)」と呼んでいることである。祭りの日には、里に接した丘、または平地の林にあり、草木が茂り入り込むのに難しい御嶽に、ノロ(祝女)、カミンチュ(神人)などの女性のみが式法にのっとって神を迎え神の祝詞を受ける。

では、琉球の常世の観念は、日の神を拝み、天を尊ぶ「天降神話」とどう結びつくのか。柳田は折口と違って、実は、常世信仰と天降神話をには扱わず、日の神と天降神話をにしている。常世の観念が日の神に結びついて、天の信仰に移行したとする。

≪日本でも古く経験したように、日の神を拝む信仰は、最も容易に天を尊ぶ思想に移り得たのだが、それが沖縄ではやや遅く始ったために、まだ完全なる分離を遂げなかったのである。朝夕に天体の運行を仰いでいた人々には、いわゆるニルヤ照りがありカナヤ望月が、冉々として東の水平を離れて行くのを見て、その行く先になお一つのより貴い霊地の有ることを認め、人間の至願のそこに徹しそこに知られることを期したのは、或いは天の神格を認めるよりは前であったろう。…中略…是が新たな神観の移行を導くに便だったことは、海をアマといい、天をアメという二つの日本語の互いに繋がり通うていた実状からも類推し得られる。≫『海神宮考』柳田国男著

柳田の場合は、琉球は常世神=日の神と天の神の信仰とが未分化なまま残っているというような言い方をしているが、折口は、はっきりと、常世神の思想は日の神思想と全く別のルートをとってきたとみなしている。常世信仰が一般的であったが、「新に出現する神を仰ぐ心が深かつた」として、それに覆いかぶさる形で取って代わった、ある部族の信仰であった日の神信仰が、普遍化した経路を辿っていくべきだと述べている。しかも、常世神そのもののニュアンスが違っている。

≪昔になるほど、神に恐るべき要素が多く見えて、至上の神などは影を消して行く。土地の庶物の精霊、及び力に能はぬ激しい動物などを神と観じるのも、進んだ状態で、記録から考へ合せて見ると、其以前の髣髴さへ浮んで来るのである。其が果して、此日本の国土の上であつた事か、或は其以前の祖先が居た土地であつた事かを、疑はねばならぬ程の古い時代の印象が、今日の私どもの古代研究の上に、ほのかながら姿を顕して来る事は、さうした生活をした祖先に恥ぢを感じるよりも、堪へられぬ懐しさを覚えるのである。≫『古代生活の研究』折口信夫著

 「其以前の祖先が居た土地」に対する折口が感じている懐かしさは、非常に長い射程を持っていることがうかがえる。それに加えて、どうも、折口と柳田の常世の方角は正反対を指しているようにおもえる。いわば、折口はかつての日本人が渡来してきたルーツであった南西太平洋を偲び西を向いているのだが、柳田の場合、昇る日の神と重ねられて東を向いている。これも、柳田と折口が日の神をどう位置づけているかに深く関わっている。日本人のルーツともいえる東進の原動力の違いとも受け取れる。

 ひとまず、「日本人」に限って言えば、もともとの信仰生活を破綻させたのが外族との抗争であるなら、統一国家の生成に向かって、歴史は辿っていくこの過程を、折口は次のように陳べている。

≪上代の邑落生活には、邑の意識はあつても、国家を考へる事がなかつた。邑自身が国家で、邑の集団として国家を思うても見なかつた。隣りあうふ邑と邑とが利害相容れぬ異族であつた。其れ同時に、同族ながら邑を異にする反発心が、分岐前の歴史を忘れさせた事もあらう。かう言ふ邑々の併合の最初に現れた事実は、信仰の習合、宗教の合理的統一である。邑々の間に厳に守られた秘密の信仰の上に、霊験あらたなる異族の神は、次第に、而も自然に、邑落生活の根抵を易へて行つたのである。飛鳥朝以前既に、太陽を祀る邑の信仰・祭儀などが、段々邑々を一色に整へて行つたであろう。邑落生活には、古くからの神を保つと共に、新に出現する神を仰ぐ心が深かつたのである。≫『国文学の発生(第一稿)』折口信夫著

そして、邑は領主の国造によって、私的に国と名乗っていた。その国造は神主として民に臨んでいた。そういう邑々を統一したのが大和朝廷であった。しかし、邑々の生活がひとつの宗教に統一されていても、つまり、大和朝廷のもとで単なる邑のひとつとして国造が豪族になったとしても、邑々時代の生活を簡単に変えようとしなかったところに軋轢が生じた。

 彼らの共同体の構成は、前3世紀前葉には、寺沢によると、母集団を中心に周りに小さな村々が衛星のようにあり、小河川にそって群れをなしたのを「小共同体」と呼び、同じ灌漑水路を共有するとしている。このように稲作のための灌漑施設の利用が共同体の構成を規定している。さらに、こうした小共同体が各河川の上流、中流、下流に集まり、同じ水系をもとに水支配集団の紐帯を示すようになると「大共同体」と呼ばれる。

≪ここで言う大地域(大共同体)を、『隋書』倭人伝に「()()」とあるのを参考にして「クニ」と呼ぶ。その階級的首長を「大首長」あるいは「オウ」と呼んで、小共同体の首長とは区別している。さらに、大共同体(クニ)がいくつか集まった小さな平野や盆地規模の大共同体群を「国」と呼び、その階級的首長を「王」と呼ぶことを提案している。…中略…『漢書』地理誌には、倭地が「分かれて百余国をなしていた」という記事がある。また、三世紀も終わりに編纂された『魏志』倭人伝には、「今、使訳通ずる所三十国」であることを記している。『漢書』の「百余国」とはおそらく紀元前の北部九州を中心とした地域であり、『魏志』の「三十国」とは(とう)()(こく)()()(たい)(こく)、そして()()(こく)などの東方の国々を含むであろうから、国の規模や統合がかなり進んでいることになる。私は、その領域規模から推定して、「百余」は「クニ」に、「三十」は「国」に対応するものと考える。≫『王権誕生』寺沢薫著

 このような寺沢の発見は、列島の国家の発生を前3世紀から前2世紀の弥生時代前期末〜中期初めまで遡らせようとする見解であり、古代史の定説を覆すものである。これはどの段階をもって「国家」として認定するかの違いであるが、寺沢は「部族的国家」がクニを指すと考えるから、そのクニこそが国家の始まりと考える。はじめ、国または国家連合の中心は北九州にあった。ところが、後200年頃から北部九州中心の連合国家「倭国」の力のバランスが崩れはじめ、中部九州、山陰、瀬戸内、近畿、東海にそれぞれ国家連合が鼎立し、利害と駆け引きが始まった。そして3世紀初め奈良盆地で巨大な政治的、祭祀的権力をもった大和王権が誕生する。これこそが倭国の新しい政体と言われる。

≪新生倭国は、部族的国家の連合体ではあるけれども、祭祀圏の違いや外的国家としての異質性を乗り越えて、まったく新しい祭祀と政体を共同で作り上げようとする巨大な幻想的運命共同体という側面が強いのだ。こうして新生倭国はイト倭国とは比較にならない広範な領域に、上から一気に王国誕生の網が被されたことになる。だから私は、ヤマト王権の誕生を、七世紀後半の律令国家の成立という、王国の完成にむけての日本国家形成の第二段階の始まりとして評価している。≫『王権誕生』寺沢薫著


最近参考になった書

                                    


日本近代史の中の日本民俗学−柳田国男小論 
 05年02月20日
萬 遜樹

(序)問題としての柳田国男と日本民俗学


▼日本近現代史の中で逆立された人物と学問

 戦後1970年ごろ、政治的には平和主義・小日本主義を後生大事に唱え高度経済成長を続ける列島国家は日本人論ブームに覆われた。この国は大日本主義の時代、自身を問いたくなる。戦前の大東亜共栄圏の夢が軍事政治的には潰え去ったけれど、経済的覇権として甦ったのだ。なぜ私たちは「大日本主義」の時代になると「日本」「日本人」を問いたくなるのだろうか。外部より内部に目を向けたがるのだろうか。これらの問いに筆者はいま簡単には答えられない。だが、この思考の原型を創ったのは柳田国男であるとだけは言える。この小論ではその柳田国男と彼が樹立した日本民俗学を、波乱の日本近現代史の中にしかと位置づけて考えてみたい。

 あらかじめ見通しを述べておくと、日本民俗学の祖・柳田国男という人物像も、彼が見出した常民としての日本人像も、日本近現代史の中で逆立された、逆投影された像ではないかというのが筆者の仮説だ。その屈折点あるいは反射鏡として立つのが敗戦であり明治維新である。柳田国男の生涯と思索の大半、そして日本民俗学の誕生と成長も、近代国家日本が創始され軍事大国・日本帝国であった大日本主義の時代の中の出来事だ。にもかかわらず、戦後日本人はそんなものはなかったかのように柳田を最初から民間民俗学者と見なし、また日本民俗学が見出した「日本人」とその文化や伝統も明治以前(さらには太古)からあったものと信じて疑わない。

 だが、事実は果たしてそうだろうか。柳田の半生は国家官吏であり自らも「民俗学者」であることを否定していたし、「国民」としての日本人は明治になって以降に形成されていったものに間違いない。さらに日本の「伝統」は失われたもの、あるいは失われつつあるものとして、柳田が組織した民俗学者たちによって断片的に採集されたが、あらかじめ失われたもの、忘れられたものとして「日本人」は近代に初めて作られたのかも知れないのだ。


▼沈黙する柳田国男の謎

 日本民俗学をほぼ独力で打ち立てた偉大なる柳田国男(1875〜1962年)。しかしその真実の姿は彼の民俗学とともに、未だ謎のままである。日本民俗学の古典とされる『遠野物語』(明治43[1910]年)を著した柳田国男が国民に広く知られるようなったのは意外にも戦後のことだ。しかも柳田は不可思議にも自らの学問を「民俗学」と呼ぶことに大正15(1926)年の時点でもなお躊躇していた。事実、柳田は長らく民俗学者ではなかったのだ。

 その柳田であるが、享年87歳の長寿である。民俗学的な著述はすでにいくつもあったが、柳田が自覚して民俗学に取り組み始めたのは国家官吏を辞め(44歳)て以降で、本格的には50歳前後のことと言えよう。そして日本民俗学を理論的にも組織的にも打ち立てていったのは還暦前後だ。終戦を70歳で迎え、有名な『海上の道』を上梓したのは死の前年の86歳のことであった。

 柳田より若い弟子であった折口信夫が死を迎えたのが1953年、先輩の南方熊楠も1941年に没している。柳田の最期を看取ったのは年若い弟子ばかりなのである。柳田の伝記には謎が多い。しかし、そのせいもあろう、伝記の謎は一向に解明できていない。柳田は83歳になって『故郷七十年』という回顧録を自ら著したが、肝心な部分は沈黙あるいは韜晦で覆われている。未だに伝記はすべて本人が「申告」した材料からしか作成できていないのだ。

 柳田は、ひたすら民俗学者以外何者でもない者として死ぬことを願いながら回顧録を綴っていたはずだ。柳田にとって戦後とは何だったのだろうか。そんな感懐を筆者は禁じ得ない。彼は自分が違う者になってしまったことを痛いほど自覚していたはずだ。だからこそ沈黙することを決めたのだ。彼の民俗学には「現代」がない。戦争や植民地がない。また、朝鮮や中国もない。本来あるべきものが見事に欠落している。

 その事情は戦前と戦後では意味が異なる。戦前は自身の政治的な考えが政府とは違うために「現代」を語ることを自ら禁じたのだろう。しかし政治的な発言が自由になった戦後においても、柳田が自身の民俗学の秘密を明かすことはついになかった。それは彼の民俗学が実は民俗学ではなかったことを永遠に隠蔽するためだ。そして彼が作り出した日本と日本人を永遠に守るためだ。

 柳田は明治・大正・昭和前期という近代日本にとって疾風怒濤の時代を生き、その中でいま賛否交叉するある日本独自の民俗学を樹立した。柳田が生きた時代と彼の学問は切っても切り離せない。柳田は東京帝大を卒業し、高級官僚となった当時最高のエリートである。そんなエリートの一人が近代日本のために打ち立てた理論と実践が彼の民俗学だったとは言える。以下、近代日本のメルクマールとなった戦争を節目に柳田の生涯と思想を追ってみたい。


(一)1875〜1904年 出生から日露戦争まで(0〜29歳)

▼故郷関西から東京への離郷

 「柳田」は元来の姓ではない。彼は松岡国男(國男)として、兵庫県神東郡田村村辻川(現神崎郡福崎町辻川)に八人兄弟の六男として生まれた(3人は早世)。そこは姫路市から北へ15キロほど入った農村である。父は国学の知識もある医者であったが、いつしか精神に支障を来たし家計は傾いた。国男は13歳の時、先に郷里を離れ茨城県で医師を開業した長兄の許に引き取られることになった(3年後には父母も上京)。この離郷体験は決して柳田だけのものではない。事情は様々だが、近代を生きる日本人一人ひとりの運命だった。

 その後、東京御徒町で開業医となった次兄通泰(本名は康蔵。通泰は郷里の富家・井上家の養子となっていた。後ちに歌人としても知られる)の許に移る。次兄の帝大同窓に森鴎外がいてその感化を受け、作歌を学ぶため、桂園派の歌人・松浦辰男(萩坪)に入門。そこで長く親交を結ぶ小説家田山花袋らと知り合う。一高に入学するが、在学中は『文学界』に短歌などをしばしば寄稿する文学青年であった。

 この頃、近代国家日本にとっての最初の対外戦争、日清戦争(1894〜5年)があった。これは「近代国家」対「前近代国家」の戦争でもあった(この勝利から「後進国」中国への蔑視が始まる)。新国家建設から27年目、憲法に基づき国会が開設されて4年後のことである。未だ国家の基礎は盤石とは言えなかった。表面的には「近代」が着々と建設されつつあったが、まだまだ農業国である日本人の生活はそのつど軋みを見せていた。農民層の分解や都市への流入が進行し、「国民」の内面は安心の拠り所を求め揺れ動いていたのだ。

 戦争は「近代国家」日本の勝利で終わったが、列強の三国干渉に苦杯をなめた。だが、初の海外領土・台湾を手に入れる。これが柳田の「民俗学」形成にも大きな影響を与えることになった。帝大入学の前年、母、次いで父を病に失う。縁戚が残るとは言え、柳田はこれで精神的には故郷を喪失したのだ。後年、何度か郷里に戻るが、ついに異邦人であることを免れなかった。柳田の民俗学とは、農村や漁村や山村という「故郷」を喪失した近代日本人の物語でもある。


▼養子「柳田」国男の誕生

 帝大では法科に進み、新しい学問・農政学を学んだ。しかし柳田はなぜ農政学を選んだかは明確に語らない。それでも彼の関心の在り処はわかる。農政学とは農学というより政治学だ。国家の農業政策に関する総合学、農業を中心にした国家政策学なのである。後ちに柳田と深い交わりを持つ、「先輩」新渡戸稲造も農政学を札幌農学校で学んでいた。

 当時の明治国家は富国強兵を唱え、工業が主導する産業国家をめざしていた。それに対して柳田は、工業の重要性は十分認識した上で、農業を重視した国家づくりが日本には必要だと考えていたのだ(柳田の理想は戦後改革によってほぼ実現された)。その思考と実践は卒業後に官僚としていかんなく発揮されるが、これはそのまま彼の「民俗学」にも貫徹されていると言ってよいだろう。

 卒業後、農商務省農務局に勤務し、農政エリートとして活躍を始めた。毎週、早稲田大学で農政学の講義も行っている。翌年、大審院(最高裁)判事、つまりトップエリート柳田直平の養子となる。26歳、1901年のことであった(3年後、直平の四女と結婚)。ここでも柳田はこの縁組みの動機を語らない。友人田山花袋が立身出世のためではないかと推測するのみである。確かに「立身出世」のためであっただろう。彼には生涯の任務があったのだ。この婿入りは実は日本民俗学にとっても重要な意味を持つことになる。

 だが、農商務省では上司と折り合いが悪く、その翌年には内閣法制局参事官に「栄転」する。体の良い左遷であった。だが、柳田はその後も早い出世を続け、局長クラスまで登り詰める。これは次兄が大学の友人を通じて元勲山県有朋と親しく、柳田自身も山県派閥と見なされたことが大きいとされる。だが、果たしてそれだけか。柳田自身が「政治家」をめざしていたのだ。いや政治家と言うより、政策家と言った方が正しいだろう。

 官庁を移っても柳田は農政官僚であった。農商務省時代から産業組合問題に深く関わり、各地への講演旅行をくり返している。その方面の権威として『最新産業組合通解』(1902年刊)という著作もある。「産業組合」とは農協などの前身だ。これをいかなるものとして組織するかが当時激しく論じられており、柳田は「産業としての農業」政策を主張していた。

 官僚となってからも、柳田の文学趣味は続いていた。ただし、この「文学」を以前の抒情詩の延長で捉えてはならないだろう。明治文学は近代思想として活動し展開していた。その空気を呼吸することを柳田は続けていたのだ。田山花袋や島崎藤村と親しく付き合い、文学者との会合(土曜会)を自宅で毎週開いた。『武蔵野』で知られる国木田独歩も参加したこの会は自然主義文学派を育み、後ちに柳田宅を離れて竜土会と呼ばれた。日露戦争勃発の前年(1903年)、柳田は田山花袋と『近世奇談全集』なるものを刊行している。怪談集である。これは何なのだろうか。


▼撲滅される幽霊と近代人の心

 近代は脱迷信の時代である。馬鹿馬鹿しいほどの合理主義の時代である。英国では1882年、心霊現象研究協会(The Society for Psychical Research)が設立された。幽霊などの心霊現象を「科学的」に研究しようというものだ。しかしこれは近代人の心の反面でしかない。実は非合理を求めていることの裏返しなのだ。事実その後、英国ではスピリチャアリズム(心霊主義)という文学潮流が起こる。夏目漱石は1901〜2年の英国留学中にこの洗礼を受けている。

 当時随一の近代国家英国でさえこれである。にわか仕立ての近代国家、わが明治日本はどうであったろうか。浄土真宗出身の「近代主義者」井上円了が妖怪や幽霊についての蒙昧を盛んに批判した。確かに江戸時代からの遺習や迷信の類にすぎないものが人々を縛っていたことは事実だろう。が、定かならぬ由来の習慣や習俗、その奥に潜んでいる思考や意識。それこそが当時の明治「国民」が暮らしを送る生活価値であり、やがて柳田が出会う「民俗」であったのだ。

 民俗学「以前」の柳田は、この微妙な社会価値の転換過程を肌で感じていたはずだ。「近代化の反動」だとして切り捨てきれない、日本人の生活価値があることを。故郷を喪失した柳田個人に即して穿った見方をすると、父母の死の衝撃があるように思う。父母の魂はどこへ行ったのか。直接にそれが『近世奇談全集』編纂の動機とも思われないが、すぐに訪れる怪談ブームに先行した柳田の感性には鋭いものがあったことは確かだ。近代人の心は怪談を欲していた。

(二)1904〜1914年 日露戦争から第1次大戦まで(29〜39歳)

▼怪談ブームがやって来た!

 日露戦争は明治の外交政治史にとって最大の事件であることは言うまでもないが、「国民」史にとっても同等以上の意味があった。15万人の死傷者が出た。自分の身近な誰かが死んだのだ。単なる官製神社であった靖国はこの時、本当に「靖国神社」となった。当時日本中に徘徊した死者の霊は『遠野物語拾遺』にも登場する。この戦争によって、日本人は「国民」となっていった。旧い藩の枠組みや村落共同体を超えて、日本「国家」という幻想を実感として感じ始めたのだ。経済構造上も一気に工業化が進み、農村が急速に解体していく。

 文壇では怪談ブームとなり、あちこちで怪談研究会が作られる。たとえば、漱石の初期短編奇譚集「夢十夜」(1908年)、鴎外の「百物語」(1911年)はこの潮流の中でこそ初めて理解できる。柳田の前民俗学時代の代表作『遠野物語』も同様だ。「近代」が深まり身の回りに実感されていくことで、「近代」ではない領域がかえって露わになっていく。近代は近代と区別すべき境界を画定していく。しかしこれは画定ではなく、近代による創造ではないのか。

 事実、近代は「古代」を再創造していた。近代天皇制こそ、その第一の産物に挙げねばならない。古代の再創造とは実は「伝統」の創造に他ならない。「日本」は近代に創出されたのだ。国家も民族も国民も近代の産物であることを忘れてはならない。そういう意味で、戦後日本人が憧憬する明治時代の「日本」とは、古い伝統的なものではなく新たなものであった。それ故、怪談も江戸時代のそれとは似て非なる、自分たちの身近な死者が登場する近代日本人のための怪談であった。霊の世界は身近にこそ在らねばならなかった。

 この怪談ブームと併行して勃興したのが自然主義文学であったことにも注意が必要だ。彼らは同一の人々であった。怪談研究会にも属した文人たちが自然主義文学者であった。島崎藤村の『破戒』が1906年、田山花袋の『蒲団』が1907年に発表されている。近代社会に生きる人間をあるがままに描き出そうとする彼らは、近代人の背後にある霊の世界を捨象した世界を表現したと言えるのではないだろうか。


▼天狗の正体は古代の山神か異民族の末裔か

 柳田は、新興国家日本の危機であった初の先進近代強国ロシアとの戦争下、何を考え何をしていたのか。これもわからないが、彼の内面に大きな変化がこの時生じ始めていたことは間違いないものと思われる。もとより柳田は明治国家の官僚として生きていた。だが、日露戦争は彼の精神に「帝国としての日本」を訓育する端緒となったのだ。それが彼を帝国主義者にしたということではないが、新たな、そして決定的な視点を柳田に与えたものと彼の「民俗学」から推断し得る。

 柳田の最初の民俗学的な著述は明治38(1905)年、ある雑誌に発表した「幽冥談」という文章で、天狗について論じたものだった。彼はそこで、一見仏教的な趣を持つ「天狗」を信じる日本人の信仰の源を探っている。また、そういう神秘を信じる日本人の「宗教」を「幽冥教」と命名している。論はドイツ詩人ハイネの、古代ギリシャの神々がキリスト教に駆逐され、今では田舎の山川に隠れ棲んでいるという「神々の流竄説」を引用しながら進められ、日本の天狗は仏教普及以前の「幽冥教」の残存と結論づけている。天狗は没落した古代の山神だったのだ。

 このようなお化け話に、いや日本人の「伝統」信仰にどこからなぜ柳田が関心を寄せていったのかは不明である。一つには自身の生い立ちや性癖、もう一つには怪談ブームが考えられるが、それだけでは足りないだろう。おそらく柳田は「日本」を考えていたのだ。彼は強く「日本」という国家と「日本人」という国民を意識し始めていた。「日本」の由来や成り立ち、その広がりを、精神において、また国土において。そして多様な文化、風土、風俗、そして信仰を持つ人々がなぜ同じ「日本人」なのかと。

 天狗の話はまだ続く。明治42年になって文字通り「天狗の話」が発表される。ところが柳田はここでとんでもないことを言い出した。「深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民」が今もいると。「天狗」は列島の先住民の末裔、「異人種」だと主張するのだ。「山人」の発見である。この直接の背景には、同じ年に『後狩詞記』を自費出版するきっかけとなった、前年の九州・四国旅行での見聞があった。山深い宮崎県椎葉村で、平地ではとうに廃れた古代の狩猟文化が今もなお生き残っていることを驚愕しながら知ったのだった。

 「天狗の話」には「奥羽六県は少なくも頼朝の時代までは立派な生蛮地であった。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。またこの方面の隘勇線より以内にも後世まで生蛮がおった」とある。アイヌを先住民、異人種と捉えている。「生蛮」とは帰順しない蛮族、「隘勇線」とは支配領域の境界線(フロンティア)を意味するが、これは当時植民地台湾で用いられた政治用語なのである。柳田「民俗学」の背景には帝国日本があった。


▼「山人」論への回路

 近代国家日本の歴史は大日本主義の歴史である。小日本主義の時代となった今でも意識されることは少ないが、現在の国土も「日本」固有のものとは言い難い。未開の蝦夷地であった北海道は、ようやく江戸末期にロシアとの角逐の中で初めて幕府直轄の属領とされたものだ。言わば、最初の植民地(外部)だった(北海道は長らく中央政府の直接統治が続き、地方自治体となったのは1947年のことだ)。そこは異民族であり異言語を持つが「国家」を持たぬアイヌ「民族」の土地であったのだ(ちょうどインディアンのアメリカに相当する)。

 それから、新井白石がそう命名した沖縄だ。中国王朝側からは琉球と呼ばれた南島弧の王国は、江戸初期に薩摩藩が実質征服したものである(奄美諸島はそのとき島津藩に組み込まれたので、版籍奉還後は直ちに鹿児島県となった)。そこは清朝領ではないが、明治に至るまで清を宗主国として仰いでいたことも事実だ(この両属を清との秘密貿易のため薩摩藩も認めていた)。

 日本ではなく「外国」であったが故に、明治政府は明治5年にわざわざ琉球藩を置き(「返礼」として「藩王」宗泰を華族として迎えた)、明治12年に版籍奉還させて沖縄県としている(宗泰は退位)。しかし、この時点でも清朝はこれを認めなかった。その決着(琉球処分)は15年後の日清戦争まで着かなかったのだ。「新領土」沖縄が日本人に親しい地になるまでには日本民俗学が大いに寄与しなければならなかった(日本人の沖縄人への蔑みは少なくとも敗戦まで続いた)。

 さて、日清戦争で台湾を植民地として獲得した日本は、実は相当長期にわたり抵抗に遭っている(その犠牲者数は何と日清戦争時を上回る)。大陸出身の中国人ゲリラ以上に、先住民の「山人」高砂族が難物であった。彼らこそ「生蛮」であり、その境界が「隘勇線」であったのだ。そういう台湾に柳田は繋がっていた。だからこそ、日本の「山人」を台湾で日本人が逢着していた先住民に喩える発想ができたのである。その回路の一つは柳田家であり、もう一つは農政学であった。


▼絢爛たる台湾人脈と農政学の展開あるいは転回

 養父柳田直平は自身も柳田家に入った養子であった。その実弟に安東貞美がいる。義理の叔父に当たる安東は日清・日露戦争に出征、後ちに第4代朝鮮軍司令官、陸軍大将となり第6代台湾総督を務める(男爵)。また、柳田国男と結婚した娘の姉が嫁いだのが木越安綱である。義兄の木越は安東と1つ違いでほぼ同じ道を歩んだ。すなわち、日清・日露戦争に出征、後ちに陸軍中将となって陸軍大臣を二度務める(男爵)。この二人が同時期に新生植民地の台湾での任務に就いていた。

 台湾は占領当初、住民の抵抗ばかりか産物も乏しく、不毛の植民地であった。フランスへの売却話さえあったほどだ。これを一変させたのが第4代台湾総督・児玉源太郎、民政局長・後藤新平の名コンビである。ともに偉人として名高い。児玉は総督在任中に陸相などを歴任、また日露戦争で満州軍総参謀長として指揮を執る(伯爵)。後藤は台湾後、満鉄初代総裁、内相、外相、東京市長などを歴任、関東大震災後の帝都復興にも尽力することになる(伯爵。思想家鶴見俊輔の祖父)。

 児玉・後藤体制は明治31〜39(1898〜1906)年であったが、その就任の年に安東は守備旅団長、木越は参謀長(当初は補給廠長)として台湾に赴任している。さらに後藤に招かれ、3年後に農政学の先輩・新渡戸稲造が総督府に入る。殖産課長として新渡戸が提出した「台湾糖業改良意見書」に基づく植民地政策によって、台湾経済は初めて軌道に乗る。新渡戸はこの功により精糖局長に就くとともに、京都帝大で教授として植民政策を講ずることになったのだ。

 新渡戸とは何者か。「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士が教鞭を執った札幌農学校(北海道大学の前身)に第2期生として学び、そこでキリスト教に入信している。実はこの札幌農学校とは、未開の旧蝦夷地を北海道として開拓するために、アメリカ農政学を移植しようと設置されたものだ。もっと厳密に言えば、前近代の植民地全般を開発・経営するための「開拓使」人材を養成するために置かれた学校であった。「農学校」であるのは、植民地とは未開の後進地であり、その経営とはまず農業政策に基礎を置くものと考えられたからである。

 少なくとも新渡戸にとっては、農政学は国内の農業政策と同時に、植民地での国家政策を担う学問だった。付言しておくが、移民と植民は違う。移民は他国主権の地に自国民が移り住むこと、植民は自国の属領となった地(植民地)に本国の国民が移住することだ。植民の場合、現地住民の抵抗を懐柔し本国民と調和させ、経済的振興ならびに社会的安定を図るための政治政策が必要となる。これが植民政策であり、学問としては植民地政策学であった。

 柳田が農政学を選択したとき、どこまで意識があったかはわからないが、日清・日露戦争ではっきりと帝国日本の射程で、つまり列島「内部」を越えた版図において展開せざるを得なくなった。これが「外部」との出逢いとなる。「日本」以外のものと出逢うことによって初めて「内部」すなわち「日本」が問うことができるのだ。異質なものとの出逢いが自らのアイデンティティーを反問することになる。「近代」とは異質との出逢いによって同質としての「民族」の独自性を問う時代でもある。

 以上のような回路を通って柳田は「山人」と出逢っているものと思われる。


▼帝国日本の中から立ち上がった山人論「三部作」

 山人論「三部作」の『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』を刊行した明治42年から翌年にかけての2年間(1909〜10年)は、柳田自身が植民政策に公務としても直接関わらねばならない時期であった。朝鮮併合である。内閣法制局参事官・柳田は併合の翌年(1911年)、その功によって勲五等瑞宝章を授与されている。叙勲の高級官僚92名中46番目のランクづけであった。専門の農政学の学識を活かした貢献であったかどうかは不詳である(植民政策に直接関与はなかったとの反証もあるが、柳田の「民俗学」自体が「関与」していることは免れ難い)。なお、その翌年にも韓国併合記念章を授けられている。

 朝鮮を植民地化するに当たり、先例となったのが台湾であった。柳田の視野にも収められていたはずの日本帝国の植民地は、北海道(千島も含む)、沖縄、台湾、南樺太である。柳田は、明治36(1903)年の時点で台湾総督府の「旧慣調査報告」を閲読し、明治39(1906年)には東北・北海道、新領土・樺太を視察している。彼の「三部作」は、決して「民俗学」ではなく、こうした植民地政策構想のための調査活動の中で初めて生成したものと考えられる。

 あまりにも有名な『遠野物語』そのものついてはここでは触れないが、この書には奇妙な献辞がある。「この書を外国に在る人々に呈す」だ。さらに序文には有名な「願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ」の言葉がある。特に謎めいて見えるのが献辞で、さすがに柳田も西洋居住の友人に送ったものだと後ちに釈明しているが、とても真実とは思えない。陳勝・呉広とは中国最初の統一帝国秦を崩壊させるきっかけとなった農民大乱を起こした首領二人の名だ。ここから、「外国に在る人々」を「山人」と捉え、日本の植民地帝国への反乱を呼びかける書とする考えもあるが、これも無理があろう。

 この書は「山人」問題に直面する、つまり植民政策に奮闘する日本帝国の政治家や官僚「同志」への警告と助言の書だろう(序文に「目前の出来事」「現在の事実」とくり返される)。「この書のごときは陳勝呉広のみ」は、日本の統治に反抗する「山人」の気持ちを内側からつかんでいることへの自負の表明であり、旧慣の文化・民俗を重視した植民政策の採用を密かに提言するものと推察できる。そしてこの視線が日本政府の政治とも新渡戸の政治や学問とも異なる、柳田独自の学問「民俗学」を形作っていく。

(献辞の解釈について若干補足しておく。柳田を民俗学者とする主流の見方では、「心が外国に在る日本のインテリに呈す」だ。つまり西欧崇拝を止めてわが日本に目を注げ、という意味となる。典型的な後付けの解釈だ。それから、さもあらんかと思わせるのが、「外国に在る人々」を西欧の「民俗・民族」学者とする解釈だ。日本における「民俗・民族」学の研究を誇示するものという見方である。実際、柳田は常にインターナショナルな視点を持っていた。)

 『後狩詞記』については若干述べたので後は『石神問答』だが、この「石神」とは東京の地名「石神井」(しゃくじい)の石神で、路傍の小神を指す。これを巡っての知人数人との往復書簡集をまとめた形式を取る著作が『石神問答』だ。そこで柳田は「シヤグジは道祖神なり」、それは「サヘ(塞)ノカミ」(境界鎮守の神)であり、アイヌ語で「界障」を「サク」と言うと論じている。柳田は正体不明の石神を、当時の「生蕃」と対峙していた古代日本の「隘勇線」の跡だと考えたのだ。

 「三部作」以後、柳田がとる「比較」という方法論も、実は台湾植民政策に由来している(彼の農政学の展開が植民地政策学の予備学としての「民俗学」なのだから当然なのだが)。台湾総督府民政局長の後藤は元々医師であった。彼は内務省時代、地方衛生視察を通じて医事衛生向上のためには、まず地方ごとの「民俗」を把握することが重要であることを学んでいた。この経験を活かし、後藤は台湾でも「土地調査事業」とともに「旧慣調査事業」に執念を燃やした。その方法論が「比較」であり、その成果が柳田も読んだ「旧慣調査報告」だった。なお、新渡戸の「自由主義」的植民地政策学も後藤に学んだ所が大きかった。

 もう1つ。「山人物語」の舞台として「遠野」が選ばれたのは、怪談ブームの中で作家水野葉舟から紹介された佐々木喜善(鏡石)との出会いが確かに機縁となっている。が、柳田と「遠野」とのつながりはそれだけではなかった。明治42(1909)年、柳田は遠野へ出かけている。そこに居たのは佐々木ではなく民族学者伊能嘉矩であった。伊能は台湾の後藤の下で旧慣調査に関わった調査官である。その伊能には台湾統治の参考のために書いたという、大和朝廷の東北における異民族蝦夷の征服・同化政策についての論文さえあったのだ。柳田は古代朝鮮語の教授も伊能に乞うている。


▼「滅びゆく」アイヌと「解放」された沖縄

 柳田は当然アイヌへの関心も深かった。『遠野物語』の初版にはアイヌ語が満ちていると言ってもよい。ところが、彼が「民俗学」をようやく唱え始めた昭和11(1935)年の再版時には「アイヌ」が消去されるのである。柳田にとって後年の「民俗学」とは何であったかの一斑が垣間見えるが、それはひとまず置こう。「山人」の国内モデルであるアイヌはすでに絶滅の危機に瀕していた。明治32(1899)年の「北海道旧‘土民’保護法」制定は国家による「征服」終了の表明である(この法は何と1997年まで存続していた)。

 その「滅びゆく」アイヌ文化を書き留めたのが金田一京助であるが、ここには近代「民族学」の倒錯があった。近代国家は国語によって成立している。国語の自覚は、日本では言文一致運動となった。口語・俗語の重視、口承文学への着目が起こったのだ。言葉が自我・個人の内面の外化・表明と信じられた(この口承文学への着目が『遠野物語』のスタイルの選択でもあったわけだ。その序文冒頭には「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」「感じたるままを書きたり」とある。ただし、言文一致体ではなく文語体が採られ、推敲を重ねた「作品」となっている)。

 金田一はアイヌに語らせることだけが重要と考えた。そこで彼は高齢のアイヌ人長老たちを遠路東京に次々と呼びつけ自宅に「軟禁」して、語らせたのだ。なぜなら「滅びゆく」アイヌ文化を最も効率よく採集する最良の手段が、自宅での「フィールドワーク」だったからだ。彼らは例外なく、語り終えるとまもなく死亡した。こうしてまさに滅びゆくアイヌ文化を、金田一は見事保存することに成功したのだった。民族学は似たようなことを世界中で行っていた。

 一方の沖縄を「日本」に引き入れた伊波普猷についても一言しておこう。伊波こそが現在に至る沖縄像を作り上げた「民俗学」者だ。また、沖縄古謡「おもろさうし」を研究し、琉球語と日本語、つまり琉球人と日本人の同根性を主張した言語学者でもある。彼は日本帝国における沖縄を最大限肯定し、沖縄県となった「琉球処分」を「解放」とさえ喧伝した(敗戦後、アメリカ占領軍を「解放軍」と讃えた輩を連想してしまう)。

 彼の著作『古琉球』(明治44[1911]年刊)では、島津藩・清朝の二重支配を甘受した「近世琉球」を否定し、それ以前の「古琉球」こそが理想の時代であったと説く。だから近世琉球を打倒した近代日本支配を肯定するのだが、当然それは古琉球と同一ではない。ともあれ、伊波の「民俗学」は柳田や折口をやがて沖縄へと誘い、彼らは驚きをもってそこに「日本」の源郷を等しく見出したのである。現在に続く「楽園」イメージはここに発する。


▼明治43年、柳田農政学の敗北

 自身も関係した韓国併合の明治43(1910)年は柳田にとって多産の年で、『石神問答』『遠野物語』の他、農政学論集『時代ト農政』も刊行している。足かけ7年に及ぶ文通を続けることになる南方熊楠を知ったのもこの年だ。新渡戸稲造を会長とする「郷土会」も発足している。新渡戸は明治39年に京都帝大から東京帝大に移り、一高校長も兼任していた(ちなみに元上司・後藤新平は同時期に満鉄初代総裁に就任)。明治42年、帝大に「植民政策講座」が設置され、この43年には植民学会が発足した。

 郷土会は柳田の自宅での「郷土研究会」が発展したもので、会員はやはり柳田の弟子たちが中心であった。そこは新渡戸の「地方(じかた)学」(地域研究)を学ぶ場であった。これは北海道・台湾での研究と実践を踏まえた新渡戸流の農政学=植民地政策学を国内に適用しようとするものとも位置づけることができる。柳田にとっては、政府政策と異なる自身の「農政学」を別角度から考究し、転回させていく場だったと言える。

 同じ年に「帝国農会」(全国農協の前身)が成立している。実はこれは農政学者としての柳田にとって政治的な敗北であった。それまで柳田は、農業の産業化を進めるため、中農層の育成、小作料の金納化、近代的な組合作りなどを提唱していた。しかし、柳田を農商務省から追い出した政府の農業政策は、中央集権での地方行政の展開と相まって、地方地主(不在化も進む)を温存し地方名望家を優遇する保守的なものだった。柳田はそんな農政イデオローグたちと激しく論争してきたのだった。

 政府の地方支配は、明治憲法公布の明治22(1889)年に施行された市制・町村制に始まるが、日露戦後の同44(1911)年には「改正」され、地方行政組織を中央政府の出先機関としていっそう強化した。地方村落への圧迫は、国有林野法(明治32年)、部落有林野統一方針(同42年)などによる林野からの締め出し、また小さな氏神社や雑多な祠の合祀令(同39年)ともなって現われた。南方熊楠だけでなく、柳田もこの合祀令に反対している。

 近代化の荒波の中での農村荒廃(都会への離郷、人口流出もその一つ)は、日露戦争による財政窮迫の地方への波及もあり、政府に「地方改良運動」という名で地方の自力更正を促進させしむることになった。そこで大きな役割を果たすのが二宮尊徳(金次郎)の流れを汲む報徳社や政府の別働隊・報徳会であった。農本主義を掲げるが、実政策的には現状の地主・小作関係を固定した上で、協調や努力ばかりを説く精神主義の「地方改良運動」だ。帝国農会の成立はこの路線の全国的な完成であった。


▼時代閉塞・明治終焉・大正改元

 明治43(1910)年はまだ終わらない。帝国明治日本の最大懸案だった半島問題解決の露払いかの如く、明治天皇暗殺計画があったとして26名が大逆罪で起訴され、翌年、幸徳秋水ら12名が処刑された。大逆事件である。金田一京助の同郷の後輩・石川啄木は評論「時代閉塞の現状」を発表し、息苦しい「戦後」を批判する(1912年、大正改元を迎えず夭折)。人々の怪異ブームへの逃避は続いていた。映画『リング』主人公貞子の母「千里眼」御船千鶴子が公開実験で失敗し自殺したのは明治44年だった。その翌年、明治は終焉する。

 1912年7月30日、時代は大正と改元される。「大いなる正しさ」と訓めるが、果たしてどうであったろうか。乃木希典元帥夫妻の殉死で始まったこの時代は、日本国家が周辺国に「近代大国」として大胆に振る舞う時期でもある。第1次世界大戦勃発までの2年間、柳田は山人系譜の探究を依然続け、また初の「民俗学」月刊誌『郷土研究』を創刊(1913〜17年。高木敏雄と共同編集、14年から単独編集)した。叔父の安東中将は第4代朝鮮軍司令官として現地に赴任し、義兄木越中将は大正後初成立の桂内閣で陸軍大臣となっていた。なお、中国では明治44(1911)年に辛亥革命が成功し、同45年、中華民国が成立した。日中両国が奇しくも同じ年に新時代を迎えたわけだ。

 市制・町村制改正の3年後の大正3(1914)年刊行の『尋常小学校唱歌(六)』には、今も親しまれて歌われる「故郷」が収められている。農村分解と農民の離郷が一定段階に達したことを証するものと理解できる。長い章をこの歌で締め括ろう。
故郷  高野辰之作詞 岡野貞一作曲

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷


(三)1914〜1931年 第1次大戦から満州事変まで(39〜56歳)

▼第1次大戦による日本と柳田「農政学」の変容

 日露戦争の戦勝国として近代列強の一国となった帝国日本は、遙かヨーロッパで始まった初の世界大戦に日英同盟を口実に一早くドイツに宣戦布告。中国に出兵して山東半島のドイツ軍を駆逐する。そしてそのまま居座り、翌大正4(1915)年、誕生間もない中華民国に対華21ヶ条要求を突きつけた。革命と近代化を支援してきた民間有志(例えば、宮崎滔天、北一輝)とは相反する、中国を非文明国=前近代国家として切り刻む、植民地主義とオリエンタリズムに満ちた政策であった。

 柳田は大正3(1914)年、貴族院書記官長(局長クラスだが、ほとんど閑職)に就任する。翌4年には大正天皇即位式に供奉した。後ちに『山の人生』(1926年刊)で、京都での御大典の際に遠く山手に立ち上るサンカ(柳田が「山人」との関連を追究した山民)の煙について述べるのはこの時の出来事である。大正6年発表の妖怪考「一目小僧」でも、妖怪は零落した異民族の神と論じている。柳田にとり、まだ日本人は「単一民族」ではなく「常民」とも出逢っていない。

 大正6(1917)年、柳田は職務をおろそかにしてまで、海外旅行に出かける。台湾、中国、そして朝鮮の視察であった(旅中、孫文と面会)。ちょうど朝鮮から移った安東大将が台湾第6代総督に就いていた。安東総督は就任早々、「生蕃」高砂族から手痛いテロを受けていた(西来庵事件)。そんな危険な台湾に柳田は行かねばならなかった。翌年にはドイツ保護領ミクロネシアに進駐し海軍大佐で退役した実弟・松岡静雄とともに「日蘭(=オランダ領インドネシア)通交調査会」なるものを設立している。柳田の「農政学」は明らかに変容していた。


▼植民地の反乱と柳田の官吏生活終焉

 ヨーロッパでの戦渦は日本経済に未曾有の好景気をもたらした。大戦特需バブルである。これを背景に「大正デモクラシー」があり、白樺派文学(文芸誌『白樺』は1910〜23年刊)の流行があったのだ。大戦末期にロシア革命(1917年)が起こる。革命思想の南下阻止と満州・シベリアでの利権拡大をもくろむ日本帝国はシベリア出兵を決定する(時の外相は後藤新平)。ところが、これが米価の高騰を招き、日本全国で米騒動が勃発した(初の全国的な民衆運動)。この事態を承けて、大正7(1918)年に成立したのが、無爵位の「平民宰相」原敬内閣であった(原は大正10年、東京駅頭で刺殺される)。

 同年、5年間に及んだ大戦がようやく終結すると、植民地では「民族」の反乱が勃発する。アメリカ大統領ウィルソンが唱えた「民族自決」の波に乗り、翌大正8(1919)年3月1日、朝鮮で独立を求めての反乱が、5月4日には中国で山東利権に抗議する反日運動が始まった。日本の帝国主義者および植民主義者には大きな衝撃であった。符牒を合わすかのように、この年の12月、柳田は貴族院書記官長を辞し、官吏生活にピリオドを打っている。俗説に言う貴族院議長徳川家達との確執だけではとても説明し難い。自身の「農政学」をさらに転回させる必要があったのだ。

 第1次世界大戦によって「植民地獲得競争としての帝国主義時代は終わった(以後の領土拡大は禁物)」と欧米の戦勝国は認識していた。このことが柳田に植民地政策学としての農政学を放棄させたものと思われる。それが国家官吏からの離職の真因でもあろう。もちろん、朝鮮や中国での民衆「反乱」も自身の決意の妥当性を再確信させただろう。柳田は「政治」(=農政学)からのアプローチを諦めたのだ。ここから、農政学であって農政学ではない、「学問」としての「民俗学」が始まる。

 ここで、植民地政策に対する政府や新渡戸との違いについて触れておこう。柳田の主張は「旧慣保存」であった。欧米流の画一的で急激な「同化政策」はかえって大きな抵抗を生じると考えていたと思われる。ただし帝国日本を否定するものではない。これに対して、札幌農学校でアメリカ流の植民学を学んだ新渡戸は「未開人」を近代人に同化していかなければならないと考えていた。これが彼の植民政策でもある。政府政策と大差はない。違いはそのやり方だけであった。


▼国際連盟委任統治委員会委員・柳田国男

 翌大正9(1920)年、それを条件に朝日新聞社客員として入社した柳田は、東北・中部・東海・九州、そして沖縄へと旅立つ(意外にも沖縄旅行は生涯ただこの一度切りだ)。計画では足を伸ばし、インドネシアまで行こうと考えていた(日蘭通交調査会の設立は前年のこと)。ところが、同年成立した国際連盟(日本は常任理事国)の事務次長に就いた新渡戸の推挙で、委任統治委員会委員に急きょ指名され、本部のあるジュネーブに向かうことになったのだった。

 滞欧中の様々な経験は以後の柳田の方向と方法を決定づけたと思われる。まず、彼が属した委員会の「委任統治」とは何かだが、ポスト帝国主義時代の新しい植民地支配方式だ。国際連盟の委任を受けて、各国が代行して統治する。敗戦国の植民地に適用され、戦勝国日本は旧ドイツ領だった太平洋諸島のうち赤道以北のミクロネシアを委任され、領有・統治することになった。委員会では、パレスチナ問題から植民地での現地住民統治の方法まで、委任統治をめぐる諸問題が論議された。

 ここで柳田は「委任統治領における原住民の福祉と発展」と題した報告(この中に 'common people' の語句:訳せば「常民」)など、これまでの「山人民俗学」研究を活かした活動を行っている。一方、パレスチナ問題にも“中立的”な立場で大いに関心を示している。この国連事務局に、転向マルクス主義者にして日ユ同祖論者・藤沢親雄がいた。「日ユ同祖論」とは日本人とユダヤ人は同民族だとする奇説である。当時、日本人の起源について様々な仮説が飛び交っていた(今も続いているとも言えるが)。柳田はこの藤沢とも親しく付き合っていたのだ。


▼「失地回復」あるいは「特殊民族」としての「同祖論」

 柳田の「山人民俗学」も日本人の起源を探るものと言える。「民族」の起源という問題は、「近代」という時代と帝国主義に複雑に結びついていた。「日ユ同祖論」の他に、「日本アイヌ同祖論」「日琉同祖論」「日韓同祖論」もある。これらは帝国日本の膨張の中で唱えられ、日本の「失地回復」言説として有効に機能し、実際それらが帝国の版図に組み込まれてきた。そしてそこでは近代統一国家の証である「国語」教育を含めた日本への同化が進められたのだ。

 さて、日ユ同祖論は「日本人アーリア起源説」を越えるための言説と理解できる。日露戦勝の結果、ヨーロッパでは「黄禍論」が高まった。かつてのモンゴルやトルコのように、黄色人種によって白色人種は征服されるという妄想であり、かつ言いがかりだった。日本人は東洋人・アジア人でありながら、すでにそうでない「近代人」でもあった。その集合的無意識の発現が「日本人アーリア起源説」となった。日本人は実はヨーロッパ人と同じ民族なのだと日本人自身が捏造したのだ。

 日ユ同祖論は、日本人の起源はアーリア民族ではなくユダヤ民族だと主張する。欧米文明文化の中で特殊・特別な位置づけを持つユダヤ民族に日本人をなぞらえようとする言説である。この「ユダヤ民族」と言った時点で「民族」の仮構性が明らかであるが、要するに日本人は自身の比類なき特殊性を主張し始めたのだ。1970年代の日本人論ブームのとき、『日本人とユダヤ人』という本があった。今も書店には数多く「ユダヤ本」が並んでいる。歴史を学ぶべきであろう。

 もちろん、柳田が日ユ同祖論者であったわけではない。しかし柳田には、ついに語らなかった日本人に関する思索が累々とあったに違いない。日本人起源論に関しては、国内の「山人」しか語らなかったが、列島の周辺の全方位が視野に入っていた。アイヌ、朝鮮、中国、さらに琉球、台湾、インドネシア、太平洋までも。自覚していた方法「比較」の観点からも為さねばならぬ仕事であったはずだ。だが、わずかに「琉球=南島」の線が戦後考究されるに留まったのだ。


▼帝国主義と民族学との深い関係

 帝国主義と民族学との深い関係も一瞥しておきたい。「民族学」(ethnology)はすでに死語で、今は「文化人類学」(cultural anthropology)なぞとご立派な学問名となってはいる。民族学は個々の民族の文化を研究するものだ(それに対して「文化人類学」は普遍的な人間文化を探るものとされる)。その学問は異人種、異文化との出逢いによって誕生した。例えば、アメリカ・インディアン、中南部アフリカ人、太平洋諸島人などである。すなわち、帝国主義が植民地を拡張する中で出逢った、「未開」で「野蛮」な、(=)「文字を持たない」非文明民族の研究を指していた。

 ヨーロッパ中心主義のオリエンタリズムという色メガネをかけた民族学者たちは、帝国主義者・植民地主義者の操る軍艦に同乗して現地に向かい、軍隊とともに移動しながら、フィールドワークを続けたのだ。彼らは金田一と同じことを言った。いま記録しなければ、文化が永久に失われると。「文明人」たちがもたらした、戦争やキリスト教ばかりか病気や労働を含めた「文明文化」が“予言”通り現地住民を次々に死へと追い込み、民族の絶滅あるいは絶滅寸前にまでしていったことは周知の通りだ。

 それにしても、帝国主義は免疫が十分できるまでは決して治らぬ「近代文明国」固有の病なのか。スペインやポルトガル、オランダ、イギリスとフランスなどに比べ、帝国主義形成に遅れたドイツやイタリア、さらに東洋唯一の後発「近代文明国」日本は「帝国」拡張に最期まで固執した。第1次世界大戦後のポスト帝国主義の時代に、ドイツやイタリアは周辺に領土を拡張しようとし、わが日本は満州国を属国化し大陸支配を広げようとしていった。


▼3つの「ミンゾク学」、そして「民族」とは何か

 話を柳田に、民俗学に戻そう。足かけ3年に及ぶ滞欧米の中で、柳田は最新の民族・民俗学理論を学び、またドイツ民俗学を知るに至る。民族学は今も述べたように、植民地を開拓した近代諸国が自国以外の未開の異文化を研究した、言わば外向きの学問であった。また、民俗学(folklore)とは文明先進国イギリスで起こり、伝統的な生活文化・伝承文化を研究対象とし、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問だ。近代化により失われていく、国内に「残存」する「前近代」の文化を書き留めようとする、言わば内向きの学問だった(どちらも無文字文化の探究がミソ)。

 これらに対し、近代化が遅く植民地も持たぬドイツでは、独自の「民族・民俗学」(Volkskunde:フォルクスクンデ:「民衆学」と訳せる)が起こる。それは、外側からの民族学、内側からの民俗学、両方の手法で自国伝統文化を見つめ、「ドイツとは何か」を自問自答する学問だ。民族学や民俗学が近代人から見ればしばしば迷信や愚習と映る事象を研究対象とするのに対して、美しき守るべき民族の伝統や文化がいま失われようとしているという危機感に支えられて展開された(先鞭をつけたグリム兄弟の「童話」はそういう考えでの民話蒐集から生まれたのだ)。これこそ、後ちの「日本民俗学」と同趣意の「民俗学」であった。

 だが、ここにはトートロジー(同語反復)の陥穽がなかっただろうか。そもそも「民族」とは「近代」が生み出したものだ。そこで探究される「伝統」とはいったい何なのだろうか。たとえ継承される諸文化あるいは「伝統」の源泉として断片的不連続にはあり得たとしても、論理的には近代「民族」のアイデンティティーは過去にはなく、現在あるいは未来に求めざるを得ない。事実、やがて「フォルクスクンデ」と「日本民俗学」は空転を始めるだろう。

 また、一つの民族は固有の国土(国境)と一つの国語を持つとされるがこれも事実ではない。近代において初めてそうなったことは、フランス言語や日本国土を見れば明白だろう。それから、「国家」となれなかったアイヌやアメリカ・インディアンとは「民族」ではなかったのか。さらに、帝国主義戦争によって画定された今に続く「国境」とは何なのだ。当時はともかくとしても、今や近代「民族」概念が破綻していることは明白だ。近代国家は決して「民族国家」ではなかったのだ。


▼関東大震災と虐殺された朝鮮人の物語

 大正12(1923)年、ロンドンに居た柳田の眠りを醒ませたのは「帝都壊滅!」の一報であった。柳田は急ぎ帰国している。柳田が離日してから時代は急旋回していた。大戦後、バブルが弾け、一転して不景気の時代が訪れていた。また、列強となった日本はワシントン会議(1921〜22年)で軍縮路線を強いられる一方、共産党がついに日本にも秘密裏に結成(1922年)されていた。関東大震災で首都は壊滅、死者・行方不明14万余名。そして、皇民となったはずの朝鮮人が震災の混乱に乗じて6,433人も殺害された。

 この後、世界恐慌を含めて長期デフレ不況に日本は突入する。バブル崩壊−大震災−長期不況と続けば、1990年以降の現在を連想せざるを得ない。そう、歴史は繰り返す。広島長崎原爆投下(1945年)や阪神淡路大震災(1995年)でもそうであったが、この関東大震災でもこれを「天罰」とする論が起こった。本気でそう信じる人には何とも言いようがないが、いずれも天罰ではなく、自然災害であり、政治であったろう。ともあれ、柳田はこれを契機に国連委員を辞め、過去ではなく現在の日本に向き合うようになる。

 ところで、関東で大量に虐殺された朝鮮人はいつの間に日本に来ていたのだろうか。これが因縁のように、柳田がこだわったコメに関わっている。台湾で実施された「土地調査事業」というのは、先住民のアイヌやアメリカ・インディアンから土地を巻き上げたように、土地を日本本国の植民に用意するためのものだった。朝鮮でも同じ「事業」が行われた。植民した日本人が、国内の小作から、柳田が政策提言した中農になることができたのはこのお陰であった。

 中農になれた日本人はよいが、そこで農耕を営んでいた台湾人や朝鮮人はどうなったのであろうか。朝鮮では、大正7(1918)年の米騒動を受けて日本国内での需要を満たすため、同10年より「産米増殖計画」というものも実施された。ここでさらに朝鮮人は土地を奪われることになった。流民化した朝鮮人は、満州へ日本へと流れたいったのである。それが関東にいた「コメ難民」としての朝鮮人だった。コメにこだわった柳田は、しかし何も語らない。


▼日本人起源論から「日本民俗学」へ

 大正13(1924)年、柳田は朝日新聞の論説委員となり社説を書き始める。日本社会の「目前の出来事」「現在の事実」に目を向ける。時あたかも普通選挙を求める運動下にあった。社説でも普通選挙を多く採り上げている。「常民」ではなく「公民」がこの時期の柳田のテーマだ。政治的主体としての民衆の自覚を促す。普通選挙法成立後は、公民の義務と権利としての選挙を通しての、社会改善を訴えている。昭和6(1931)年に刊行された『明治大正史 世相篇』はその集大成でもあった。

 一方、柳田はこの時期、渡欧米前の国内旅行をまとめている。その果実が『海南小記』(1925年刊)であり、『雪国の春』(1928年刊)であった。南北日本の紀行文である。柳田は奇妙な民俗学者であった。方法としての「旅」を十分に自覚し、また弟子たちに旅を通じた採集を盛んに促していたが、自身の旅は民俗学として一向に深まらないのである。彼の民俗学は弟子たちが採集した調査報告、民俗誌を通じた思索にこそ真骨頂があった。彼自身の旅は類い希なる美しい紀行文しか生まなかった。

 郷土会をベースにした民俗雑誌『郷土研究』は大正6(1917)年には休刊となっていた。今度は思いを新たに、民俗学と民族学の架橋をめざす雑誌『民族』(1925〜30年。民族学者岡正雄らが編集委員)を創刊する。「民俗学」への自覚は高まっていた。それが講演活動になって表れる。「南島研究の現状」(1925年)や「日本の民俗学」(1926年)など『青年と学問』(1928年刊)に収められた講演が行われている。山人論の総括であり訣別ともなる『山の人生』(1926年刊)もまとめられた。

 柳田は山人論などの日本人起源論から「日本民俗学」へと向かっていた。この時、「民俗学」という言葉がようやく彼の口に上る。大正末年の講演「日本の民俗学」で柳田はこう切り出す。「自分としては今日まで、じつはまだこの名称を使ってはいなかった。(略)かりにこうでも言って置こうかと思案していたところであった」と。ここから「フオクロア」(民俗学)と「エスノロジー」(民族学)の釈義に入り、あたかも訳語の問題であるかのように話は進む。だが、問題は果たしてそうだったのだろうか。


▼「民俗学」の語に躊躇しなければならない意味

 農政学=植民地政策学につながる「民俗」という語への躊躇があったに違いない。「民俗」とは本来、支配者が非支配民の性情を探る政治用語だった。明治初期には明らかにそういう意味で使われていた。山人論とは、かつての日本「帝国」が見事に「植民地」支配を成し遂げた「古代民生」論でもあったのだ。帝国主義国家の官僚であった柳田の立場は微妙である。『遠野物語』あるいはこの後ちの「常民」概念に見られるように、確かに彼の言葉は被征服民や被支配民への同情に満たされている。

 だが、それは決して現実の行動と一致するものとは限らない。例えば、同じ大正15年の講演「眼前の異人種問題」でアイヌの現状を憂え日本人を批判するが、柳田はその時自分の前に報告演説させたアイヌ人を保護観察が必要な者のように扱って「余計な発言」を断じて許さなかった。彼は官僚を辞めて直接政治に関わることは止めたが、学問による「経世済民」を唱えるようになった「政治家」(支配する側の者)であった。「民俗学」は、柳田の化けの皮を剥ぎかねない危険な言葉だったのだ。

 さて、大正デモクラシーは大正14(1925)年、柳田の念願でもあった普通選挙法成立という実を結ぶ。が、同時に治安維持法というあだ花も咲かせた。翌年12月、元号は大正から昭和に変わる。短い元年が明けた昭和2(1927)年、元帥乃木ではなく、文人芥川龍之介が自殺することで大正時代は終わったと言えよう。金融恐慌、さらにニューヨークを震源とする世界恐慌の津波が日本にも押し寄せる。経済の苦境は政治ばかりか学問も追い詰めていき、その中でわが「日本民俗学」は誕生する。

(四)1931〜1945年 満州事変から敗戦まで(56〜70歳)

▼オバケの話をすることが憚れる時代

 昭和6(1931)年、満州事変が勃発する。のべ15年をかけることになる日本の「最終戦争」が始まった。自己矛盾した戦争であった。敵として戦う欧米諸国こそが、明治立国以来、日本の軍事も経済も支えていたのだ。軍事大国であるためには、欧米との友好な経済関係が何より必要であった(この事情は現在もなおそうであろう)。だが、アジアで資源を得られれば「自立」できるかも知れないという保証のない夢想に、日本帝国はずるずると陥ってしまったと言う他ない。

 柳田は昭和5(1930)年、「妖怪談義」を発表している。その中に、「私は生来オバケの話をすることが好きで、またいたって謙虚なる態度をもって、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっとその試みを断念してしまったわけは、一言で言うならば相手が悪くなったからである」という文章がある。この「オバケ=妖怪」とは、柳田にとっては「零落した異民族の神」に他ならない。つまり、日本国内の異民族について、引いては多民族国家としての日本を語ることが憚れる時代になったと述べているのだ。

 事実、曲がりなりにも大正デモクラシーを担ってきた政党政治が壊滅する。大正13(1924)年から8年続いた政党内閣は、浜口首相狙撃(1930年。翌年死)、昭和7(1932)年の五・一五事件(軍人テロ)での犬養毅首相射殺で幕を閉じた。日本は急速に自らの道を狭め、隘路に入り込む。翌年、満州問題で国際連盟を脱退、同10年には美濃部達吉の天皇機関説問題から国体明徴声明(日本はアマテラス以来の神の国であり、天皇は絶対君主の旨)を発する。先鋭左翼マルクス主義ばかりか、大本教(非国家神道系)など宗教団体さえが弾圧されていく中で、柳田はようやく本気で日本民俗学に取り組むのである。


▼「母の日」誕生と母子心中の急増

 昭和7(1932)年、柳田は朝日新聞社を退社し、肩書きのない一民間人として日本民俗学樹立に本格的に邁進する。57歳であった。『日本の伝説』(1932年刊)、『桃太郎の誕生』(1933年刊)、『日本の昔話』(1934年刊)などを相次いで出版している(いかにもフォークロアだ)。時あたかも、伝説ブームであった。伝統の復興、愛郷心や愛国心の高揚が民間でも起こっていたのだ。だが、暗い時代でもあった。世界恐慌下、昭和6年に東北・北海道で凶作、東北地方は同9年にも大凶作だった。救いのない貧困が農村を襲い、娘の身売りさえ横行した。政府は「農山村漁村経済更正運動」を推進する(何のことはない、互助主義的な自力更正だ。別働隊として柳田に近い石黒忠篤が活動していた)。

 実は日本での「母の日」は昭和6年に始まる(もともとドイツの花屋のキャンペーン)。そしてこの頃、母子(親子)心中が急増している。興味深いのが対称的に捨て子が明治30年代以降急減し、この頃底を打っていることだ。日本は長らく捨て子社会だった。また、養子社会だった。坪内逍遙、夏目漱石、国木田独歩、斎藤茂吉、室生犀星、芥川龍之介などの文人たち、そして柳田も養子だ(いずれも明治31年以前の生まれ)。この転調には日本の家制度の変化が関係している。

 「封建遺制」の権化とされる家父長的な家制度ができたのは、その封建時代でなく意外にも近代で、明治31(1998)年のことだった。その世代交代が完了したのがこの昭和初期だと言えよう。近代の家は個々に閉鎖的に、また「血」を重視するようになって、自由な捨て子や養子を阻むようになったのだ(近代は「純血」を好む)。そして家が経済的に打撃を蒙った時、「母子心中」という新流行が始まったということだ。近代において家の女は「女性」ではなく「母性」と位置づけられた。「母」も近代概念の一つなのである。柳田は「妹の力」などの論文で、あるいは婚姻史を繙きながら、女性の役割を大いに褒めそやすが、結局は「女性」ではなく「母性」を讃えている。柳田の女性論の射程は存外狭いのである。


▼「日本民俗学」の樹立と方法論

 昭和9(1934)年、柳田は自宅にて民俗学の自主研究会である木曜会を始める。これを基盤に全国山村生活調査を開始。日本民俗学の理論書『民間伝承論』を刊行する。翌年には「日本民俗学講習会」を1週間にわたり開催(全国から126名が参加)して民俗学徒の裾野を広げ、「民間伝承の会」を発足させる。また、日本民俗学の方法論を『郷土生活の研究法』として刊行。さらに、機関誌『民間伝承』を発刊する。昭和11年、全国で昔話の採集を開始。その翌年、今度は全国海村生活調査を開始している。

 山村調査については、柳田は大正7(1918)年、郷土会で実施したことが一度あった。神奈川県のある山村を実地調査したのだ。しかしこれは見事な失敗に終わっている。典型的な「日本の農村」(分かりやすく言えば、テレビの「水戸黄門」が描く世界か)ではなかったのだ。稲作中心ではなく、村民も排他的であった。柳田らの「日本民俗学」が何なのかがわかる。山村調査とは現実を調査し分析するものではなく、あらかじめ想定された事柄をただ確認したり、仮説を「実証」する「事実」を「発掘」することだったのだ。

 今度もそうだったとは言わない。柳田の弟子たち、あるいは会員たちが実際には行ったのだから。しかし柳田は周到であった。何をどう質問し採集するかをこと細かく規定していた。自分の「意見」を交えず、「事実」だけを記録しろと(そのために「郷土生活研究採集手帳」というものが作成され、配付された)。柳田の民俗学は、この膨大な採集記録を前提に成り立っていた。

 柳田の方法論は「重出立証法」と呼ばれるが、厳めしくそう自称しただけで、要は「比較」研究に尽きた。それが最も成功したのが『蝸牛考』(1930年刊)である。かたつむりの呼び名を全国で組織的に採集し、その言葉が文化の発信地・京都からいかに地方へ広がり変貌したか、また残存したかを実証的に解き明かした研究だ。しかしこんなにうまくいったのはこれだけとも言える。それに、「郷土研究」を唱える柳田が、文化の伝播を「都(中心)から鄙(周辺)へ」の一方通交だけで説いたのは薄情であったとも言えよう。


▼「常民」の「日本民俗学」の論理と運命

 柳田の「民俗学」には、やはり何か別目的があったように思えてならない。それは「日本民俗学」と呼ぶより「日本民族学」がふさわしいように思う。“日本民族”がことさら言挙げされる時代に違和感を持ち、もう一つの“日本民族”学をめざしたに違いない。学問を越えて、柳田の「政治」感覚が見え隠れする。だが、その試みは成功したのだろうか。柳田は“日本民族”学と“日本民族”主義との間にいかなる差異を保つことができたであろうか。

 若干、註を入れよう。柳田自身は、外に向かう「民族学」を今は措き、内に向かう「民俗学」を選択する意義を呼びかけている。だが、これはあくまで日本語の問題であって、「民俗学」がそのまま「フォークロア」ではない。筆者が前段で述べたかったことは、柳田がめざしたのは言葉遣いとは裏腹に「フォークロア=民間伝承の学」ではなく、むしろ日本人の「エスノロジー=民族の学」の探究ではなかったか、ということだ。

 さて、『民間伝承論』や『郷土生活の研究法』で民間伝承の三分類が説かれている。外見から採集可能なもの、言葉から採集可能なもの、そして生活意識や心意など同郷人をして初めて採集可能なものである。信仰などに関わるその最後の領域は「同郷人」にしか分からない、「外人」には理解できないと述べている。ここで言う「外人」とは異郷人ではない。文字通り、外国人のことなのだ。つまり、各地方の日本人のことは同じ日本人にしか理解できないということを回りくどく言っているのだ。

 ここから、世界民俗学(民族学)の前にまず「一国民俗学」をという発想もある。確かに当世流行りの無分別の「市民」や「人間」はいかにも安易だ。だが、ここで柳田が述べていることは、「日本人なら日本人のことが分かるはずだ」というトートロジーなのだ。これが果たして「日本人とは何か」という問いへの正しい答え方なのだろうか。

 実際、日本民俗学は山村調査などを通して何を採集したのだろうか。「最終戦争」の最中、何を見ていたのだろうか。普通の農民=「常民」こそが植民地戦争の直接の担い手であったにもかかわらず、「戦争」も「植民地」も見ていなかったことは確かだ。すなわち現実は民俗学の対象ではなかった。先ほど郷土会の山村調査を皮肉ったが、やはり柳田たち民俗学者たちは「聖なる農村」「聖なる農民」しか見なかったのだ。理想に描いた「日本」「日本人」(これが戦後、宮本常一によって「忘れられた日本人」として語られる)というあらかじめ用意した答えだけしか見つけない学問、それが「日本民俗学」の核心だったと、ここでは言わざるを得ない。

 柳田は自ら「民俗学」を狭隘な道に追い詰めたように思う。自己は他との関係の中にこそ見出される。山人民俗学というやや変則的な形を取ったが、以前の「植民地政策学」(内部と外部が入り組んだ世界)の観点からは「多様な日本」(例えばイモ文化も持つ日本)こそが日本のありのままの姿であったはずだ。それが時代に重ね合わされ、コメ文化を固守する「単一民族」としての日本人、つまり「常民」が日本人としてあらかじめ規定されるようになる。自制的に「植民地」(外部)について語らないできたことが、ここでかえって裏目となってしまったように思われる。

 それでも柳田は時代に抵抗する。「伝統」ではなく「伝承」を研究しなければならないと講演し(1937年「伝統について」)、国民や日本ではなく、「常民」や「郷土」という言葉遣いに固執する。だが、彼は各「郷土」文化に「日本人」「日本民族」固有の共通要素を見出して、あるいはそれを見出すことが「日本民俗学」であることに満足するのである。そうして愛郷心は愛国心に転化、吸収されていく。空転していると言わざるを得ない。起源問題を語らなくなった柳田は、すでに着地点を見失っていたのだ。日本帝国と同じところに落ちていくしかなかった。


▼アトランティス大陸とムー大陸

 ナチスの時代となったドイツの「フォルクスクンデ」(民族・民俗学)はどうなったであろうか。ナチスはドイツ=ゲルマン民族の起源を世界中に探索する。それが「フォルクスクンデ」の重要な使命でもあった。そして、ついにドイツ民族の原郷として見出された一つがアトランティス大陸だった。ノアの洪水に比すべき大陸水没の危機の後、生き残り混血せずに「純血」を守った唯一の人種がゲルマン人だと主張するものだ。ナチスドイツはオカルト帝国でもあった。「ドイツ民俗学」はこれを担うオカルト政策学として強力に機能する。

 一方、日本帝国が支配するミクロネシアがある太平洋には、オカルティスト(ご都合神秘主義者)たちにより、日本民族の原郷としてムー大陸が見出されていた(ムー大陸のネタ本の翻訳には、ジュネーブのあの藤沢が関わっている)。これに直接賛同するものではないが、柳田の弟子たちも緩やかには帝国日本に協力していたと言ってよい(例えば、岡正雄は参謀本部嘱託、陸軍中野学校教官、大東亜共栄圏の民族調査のための「民族研究所」設立に関わるという履歴だ)。

 少なくとも、満州など植民地への移民(麗しき「故郷」を求めての「分村」運動)は「日本民俗学」が促進したという側面は否定できない(郷土会系の石黒忠篤や早川孝太郎らが活躍した)。また、そこ(日本民俗学)は、生き残った左翼主義者や自由主義者たちの「内的亡命」地としても機能した。いや、問題は民俗学だけがということではないだろう。

 日本帝国が幻想した「大東亜共栄圏」とは、戦争ばかりか、日本人の壮大なフィールドワークの場でもあった(柳田の講演「日本の民俗学」の結語を見よ)。日本民族の起源探究、日本文化研究の場としてそれはあった。そこには民族学者ばかりか歴史学者や社会科学者、転向左翼主義者、もちろん民俗学者も加わって、「フィールドワーク」を行っていた。戦後の日本考古学、日本古代史、日本人起源論はもちろん、社会科学さえも、ここでの「研究」の上に成り立っていたのである。

(五)1945〜1962年 敗戦から死去まで(70〜87歳)

▼敗戦・占領を生き延びた日本民俗学

 柳田は敗戦をいかに迎えたのか。興味あるところだが、不詳だ。日記には「八月十五日 水よう 晴。十二時大詔出づ、感激不止。午後感冒、八度二分」とだけある。柳田は、近所に住む貴族院議員の長岡隆一郎から聞き、15日の終戦を知っていたようだ。11日の日記には「時局の迫れる話をきかせられる。(略)いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」とある。

 アメリカ占領軍が進駐したとき、柳田に果たして「不安」はなかったのだろうか。戦時中、「無害」あるいは協力的な学問として日本帝国に公認されていた日本民俗学をアメリカ占領軍はどう裁断するか、心配しなかったであろうか。柳田と帝国との近さは枢密院(天皇の最高諮問機関。1947年廃止)最後の顧問官への任官(1946年)にも表れている。だが、占領軍は日本民俗学・民族学を、天皇と同様に占領政策にむしろ活用することに決めた(GHQの民間情報文化局に、岡正雄、石田英一郎、関敬吾らが勤務した)。

 老年の柳田(70歳)自身は「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」の言葉通り、戦前と変わっていなかった。いやますます意気軒昂としていた。昭和21年、戦争中に書いていた『先祖の話』をそのまま上梓する。すでに「常民」としての日本人像は柳田の頭の中で揺るがぬ姿となっていた。氏神信仰研究を発展させて、その中核として取り出したのが、この著作のテーマである家単位の祖霊信仰だ。柳田は、例えば墓石を採り上げて、古くは家単位の「先祖代々之墓」しかなく、個人単位の墓石出現は明治になってからのことだと述べ、ここに日本人の長い伝統と信仰を読み取っている。

 だが事実は、古いはずの「先祖代々之墓」は柳田の思い込みに過ぎず、それは早くても明治20年代以降に明治人が始めた新しい「伝統」だった。それまでは正反対に個人や夫婦単位の墓石が普通だったのだ。この小論でも先述したように、「家」制度も「母」も私たちが持っている観念は近代の所産である。古代や中世が近代に直結していることはまずない。天皇制の諸儀礼、初詣や成人式が近代の「伝統」であるように、柳田の「日本民俗学」も近代明治の所産であったと言えよう。


▼遺作『海上の道』の意味するもの

 また、柳田は昭和21〜22年にかけて「新国学談」三部作を刊行している。日本民俗学は新しい国学だと主張するのだ。「国学」とは本居宣長らを復古することではない。国学と言う本旨は「漢意」以前、すなわち中国文化などが流入する以前の原日本を探究することにあった。近代以降の日本においては、同時に「欧米化」以前を追究することでもある(戦後占領の時点ではアメリカの占領政策への牽制を含む)。戦前から続く、柳田の国語への関心もここにある。柳田はやはりナショナリスト(民族主義者)であった。

 ここで指摘しておかなければならない重要なことがある。固有の「日本」という発想だ。「民族」や「国家」概念は近代の所産だが、その祖型が古代に求められる。例えば「縄文人」や「弥生人」、また「邪馬台国」や「大和朝廷」はそういうものとしてある。固有の「日本人」というものがあってこそ初めて、その起源や原郷も探究可能となるのだ。柳田の遺作『海上の道』が意味するものは、単に稲とその信仰を持った日本人の南方からの渡来を説いたということではなく、「日本人は初めから日本人であった」というトートロジーの完成なのである(遡れば、明治時代に始まる邪馬台国論争もこれを共通の前提としていた)。

 『海上の道』を遺して柳田が没し数えて10年目の昭和47(1972)年、敗戦以来アメリカによる占領・統治が続いてきた沖縄が日本政府に返還され(本土復帰)、再び沖縄県に戻る。何度目の「琉球処分」であろうか。語られることは少ないが、「内なる植民地」であるが故にそれがくり返されてきたのだ。柳田は『海上の道』に収められた論考を、昭和25(1950)年以来書き続けていた。その翌年は対日本講和・日米安保の二つの条約調印の年であった。そこには沖縄占領の継続が含まれていたのだ。

 柳田は最後の「政治」を実行していた。沖縄を、固有の「日本」の一部分として国内外に主張していたのだ。柳田ら日本民俗学者は沖縄を「南島」と呼ぶ。これはどこから誰が見ての「南島」か。すでにこの言葉遣いの中に沖縄への視線が定められている。ともあれ、柳田は往年の例の「椰子の実」の逸話も引きながら、「日本人」の中国南部からの移住(移民)、すなわち「海上の道」を指し示す。くり返すが、柳田の「日本人」は南西諸島および日本列島に着いてから「日本人」になったわけではないのだ。


▼小日本主義としての日本「単一民族」説

 戦前と断絶していないのは一人柳田だけではない。根本転換のかわりにただ「戦後」という万能語を冠するだけで、占領軍の軍国主義断罪とレッドパージの両方をくぐり抜け、民族主義思考に染まった「戦前」は復活する。例えば、右翼歴史学者・津田左右吉の学説を継承する左翼「戦後歴史学」がそうだ。皇国史観に異論を唱えたために帝国の指弾を受けたことを「免罪符」に、津田の本意に反する姿で取り出して「津田史学」と持ち上げた。

 津田史学は紀記批判の必要性を説き、そのまま歴史叙述とすることは間違いとした。戦後歴史学はそれを受け継ぐことから出発したが、結局紀記の切り刻み直しを行なったに過ぎず、紀記に依拠する体質は不変だった。そして何よりも、固有の「日本人」が前提になっている。また、戦前に拡張された領土は固有の領土ではなかったから切り捨てられて当然という戦後的な思考は、裏を返せば「日本列島は固有の日本の領土としてある」という思考であった。

 前にも触れたが、「大東亜共栄圏」は日本人が来た道を逆展開してたどる一大フィールドワークであった。北海道・樺太、満州・蒙古は北からのルート、朝鮮半島は日本人が列島へ至る回廊として、そして南西諸島、台湾、中国南部は南方ルート、中国奥地は東南アジアやインド西部からの経由ルートとして、さらに太平洋のミクロネシアは「ムー大陸」水没後の痕跡として見出されていた。

 戦後的思考の代表とされ、その半島ルートを採り上げた江上波夫の「騎馬民族渡来説」(1949年発表)も、そんな戦前「民族学」が行なってきた研究成果の上にある。戦後、「日本民族学」改め「(日本)文化人類学」を立ち上げたのは、岡正雄、石田英一郎らだった。江上はその仲間だ。これはアメリカによる日本占領を古代に転位させると同時に、ほんの4年前までは日本帝国が「征服していた」半島の位置づけを逆転させ、固有の日本が半島から「征服された」国だったことへ認識置換させる、言わば戦後的トリックでもあった。

 「騎馬民族渡来説」の翌年、柳田の『海上の道』収録の第一論考「宝貝のこと」が発表されている。これで南北両ルートからの日本人起源説が出揃った。固有の日本人は征服されたか、平和的に移民したのだ。どちらにも日本人からの戦争も侵略もない。そして列島こそ日本固有の領土だったのだ。そして、近年の「縄文文化論」こそ、究極の民族主義言説と言わざるを得ない。なぜなら列島は約1万年前から日本人のものだとするものなのだから(縄文人は日本人ではない)。これが、戦前から戦後、そして今も続く「永遠の日本人」という「近代の神話」だ。日本人はかくして、列島に住む「単一民族」として構築されてきたのである。


▼「帝国の遺産」と柳田の晩年

 戦後左翼理論の金字塔として丸山真男の政治学と並び称される、大塚久雄の経済史学も、戦前の植民地政策学の上に成立している。その系譜は植民地経済学者・福田徳三および新渡戸稲造から矢内原忠雄へのラインでつながる。大塚の記念碑的著作『共同体の基礎理論』(1955年刊)には、植民地の後進経済状態を分析した福田の影響が色濃い。そこでは「アジア的共同体」を近代化に向かうに最も原始的な形態として叙述してある。「脱亜入欧」の日本近代化プロジェクトはここにも貫徹していたのだ。

 それから、満州建国とその経営は「近代国家・社会はいかに創られるか」という壮大な実験であった。そこには戦後日本を領導した国家官僚(例えば、首相となった岸信介)、社会科学者や科学技術者たちが蝟集していた。戦後日本は彼らおよび彼らの遺産によって復興したのだった。戦後経済計画もそういったものの一つだ。NHKテレビの「プロジェクトX」は主に高度成長期のヒーローたちの物語に仕立てられているが、新幹線開発が零戦飛行機技術者の戦後の仕事であったように、戦後日本とは「帝国の遺産」によって成り立っていたのだ。

 柳田は昭和22(1947)年、自宅の一部を提供して「民俗学研究所」を発足させる(翌年に法人化)。昭和24年には「民間伝承の会」を改称して「日本民俗学会」とした。ここで柳田はようやく名実ともに「民俗学」を名乗ることを自らに許したのだ。昭和26年、文化勲章を受章。77歳であった。翌27年、米軍による占領は終了する。だが、晩年は満足とは言えなかったようだ。昭和31年、その活動を不満として民俗学研究所を解散させている。『故郷七十年』を綴り、遺言として『海上の道』を刊行。『定本柳田国男集』が刊行される中、昭和37(1962)年8月、前半生を見事に消し去り、稀代の学者として柳田国男は満87歳の生涯を閉じた。

(エピローグ)柳田国男とは誰か

 その後のこと、それから語り残した想いを断片的になるが述べてみたい。

▼柳田国男、南島、そして日本人論ブーム

 昭和35(1960)年、旅する民俗学者・宮本常一が『忘れられた日本人』を刊行する。ここに「常民=日本人」は完成されたと言える。それはすでに忘れられ、失われたのだ。こうして「アイヌ」が金田一京助らを介してしか出逢えないように、「日本人」は柳田国男ら日本民俗学者たちを通して発見されるものになっていく。そしてその「起源」は忘れられ、近代日本で創始された「伝統」が固有の日本の伝統として解釈し直されていくのだ。

 戦後、新世代によるニッポン発見が起こる。文学者・島尾敏雄は昭和36(1961)年の「ヤポネシアの根っこ」から同45(1970)年の「ヤポネシアと琉球弧」まで、柳田らに刺激を受けながら南島論を展開する。独自の論考を繰り出し戦後思想界を震撼させた吉本隆明も、柳田論を綴りながら昭和45年に「南島論」を発表している。柳田国男は没後ほどなく、「南島」とともにブームとなっていたのだ。

 「南島」の言葉遣いは、すでに指摘したように日本の「内なる外国」として見る視線だ。沖縄は原日本文化の残存地域とされる一方で、対ベトナム作戦で戦う現実の米軍の存在は「内なる外国」として日常的には遮蔽されていた。こうした柳田・南島ブームに続いて、1970年代の日本人論ブームが始まっていることは大変興味深い。そこでは日本人の特殊性が大いに論じられた。これはもう一つの「日本民俗学」ではなかったのか。


▼逆立する柳田像:何が語られ何が語られていないか

 柳田国男はこうして逆立して語られるようになる。民俗学者として死んだ柳田は初めから民俗学者であった。彼の生涯はすべて日本民俗学のために最初からあった。そのために彼自身による自伝的記述『故郷七十年』その他が書かれていた。出生、幼年時代の想い出はすべて後年の民俗学に結びつけられる。そこには日露戦争を近親は軍人として自らは国家官僚として戦い、日韓併合で勲章を受章し、叔父が総督を務める台湾など植民地各地を怪しく経巡った柳田はいない。もとより、戦争協力した日本民俗学は語られることはない。

 柳田自身は何を語り何を語っていないのか。「聖なる常民」や「聖なる農民」の言葉から分かるように、農民(日本人)の持つもう一つの側面、つまり独善主義や排外主義、偏狭さや愚かさが語られていないことは夙に指摘されてきた。また、性が排除されているとも。確かに、例えば『遠野物語』を、同じ佐々木喜善から取材した水野葉舟の「遠野物語」と比較すれば明らかだし、南方熊楠との論争でも性にまつわる記述の忌避は見て取れる。

 だが、これらは真に重要なことなのだろうか。あるいはそれらの隠蔽とは結局何を意味するのだろうか。つまり柳田によって本当に隠されたこととは一体何なのだろうかと問うべきだろう。それは、戦争や植民地を含めた、時代を丸ごと生きた日本人の現実の生活だ。そこにこそ、醜い農民の姿も日常の性という営みもある。柳田そして彼の日本民俗学は「政治」を隠蔽、あるいは忌避したのだ(それが彼の「政治」だ)。現実を見ないから、理想的な日本を描くしかなかったとも言える。柳田の民俗学自体が孕み持つ理論的矛盾もそこに起因している。


▼帝国抵抗者の「帰順」先としての日本民俗学

 明治以降の近代は日本人にとり初めての「政治」の時代であった。帝国が進める政治、その展開として幾多の戦争や植民地政策があり、これに抵抗する自由民権、社会主義、マルクス主義など行動的な左翼運動が起こっては弾圧されてきた。一方、もの言わぬ多くの国民は農耕などの労働、時には戦争に従軍し、貧しい暮らしの中、幽霊や妖怪、怪談や伝説、超能力やオカルトなどに逃避してきた。

 柳田はもともと国内が分裂するような政治的対立を好まなかったように思われる。資質的なものもあるだろうが、やはり国家のトップエリートとして出発したことが大きいだろう。植民地での「旧慣保存」の主張、「山人」やアイヌや沖縄の擁護は、決して彼らの側に立つものではない。そうではなく、保護者、言わば「親権者」としての「救済」姿勢なのである。国内についても同じだ。

 日本民俗学は、帝国への抵抗者が「帰順」する場所、「転向者」の受容先としてあったのだ。すべての「日本人」が共有できる場所としてそれはあった。だから、政治的対立なぞあり得ないのだ。事実、「日本民俗学」は1930年代、マルクス主義と同時代の「運動」として組織・構築された。そして、転向者や左翼主義者たちが「内的亡命」する場所として実際にそれは機能し、彼らも「帰順」して帝国の戦争に協力したのだった。


▼アジアに残された「民族」の課題

 日本人単一民族説を分かりやすく批判しておこう。日本人の顔の多様さが何よりそれを証明している。その多様さは、よく言う「縄文系」「弥生系」だけではとても説明できない。朝鮮人、中国人、モンゴル人に似た顔立ちのほか、東南アジア系かと思う顔もある。これは多様な混淆を物語るものだろう。日本人には単一の原郷なぞなく、長い時間をかけていくつもの民族が列島で出逢い、徐々に「日本人」が形成されてきたのだろう。

 また、「民族」の内容は同一を保持し得ず、変化し消長する。ユダヤ民族がその代表例だろう。ユダヤ教を信仰するということ以外、歴史的に彼らの同一性は何ら保証されていない。「アラブ民族」もイスラム教によって形成されたものだ。このことはアジアの中国人や朝鮮人にも言える。今も「中国民族」は存在しないし、その中核を成す「漢民族」も歴史的に見れば同一ではない。そして、「高句麗人」と今の朝鮮人は果たして同一だと言えるであろうか。

 歴史的な国境もそうだ。近代欧米列強によって画定された中近東やアフリカ大陸、南北アメリカ、アジア内陸部の国境はもちろんのこと、さらに言えばヨーロッパ大陸内の国境すら、「民族」の居住領域とずれがある。筆者は、近代国家や民族を否定するものではない。ただ「永遠の民族」という概念が近代的な「神話」であり、それを振り回すことは危険なことだと述べているのだ。近現代においては、近現代の「民族」と「国境」しか存在しないのだ。

 「純血」は近代的な嗜好であるが、自己矛盾的に表現される「在日韓国人・朝鮮人」「中国残留孤児」もその鬼子である。民族と、近代国家や国民は本来矛盾しない。「民族国家」であることが矛盾するのだ。現実には自民族の国家に住まない人々はごまんといる。国家を持たぬ民族も多くある。「日本人の子どもは日本人である」というトートロジーは、実は何も語っていない。日本の原郷探しと同様に、循環論法に過ぎないのだ。近代とは、自分の尾を呑み込もうとするウロボロス的世界だと言えよう。


▼万華鏡としての柳田国男

 長々と柳田国男とその周辺を論じてきた。筆者が述べたかったことの一つは、柳田は「民俗学者」ではないということだった。彼が規定したものが、日本人に許された唯一の「民俗学」ではないのだ。こうして柳田と民俗学を解放しておいて、柳田を別の角度からながめるとき、柳田の膨大な著作は近代日本の尽くせぬ宝庫として再び輝き出すだろう。あたかも万華鏡のように、のぞき込む度に少しずつ違う柳田が浮かび上がる。筆者ももう一度のぞけば、また別の柳田像を描くに違いないのである。本論はそんな柳田万華鏡の一つに過ぎない。

[主なネタ本など]
大塚英志『「伝統」とは何か』ちくま新書
村井紀『南島イデオロギーの発生』福武書店
村井紀『新版 南島イデオロギーの発生』岩波現代文庫
福田アジオ『柳田国男の民俗学』吉川弘文館
川田稔『柳田国男』吉川弘文館
橋川文三『柳田国男』講談社学術文庫
橋川文三『黄禍物語』岩波現代文庫
谷川健一『柳田国男の民俗学』岩波新書
岩本由輝『もう一つの遠野物語』刀水書房
播磨学研究会編『再考 柳田国男と民俗学』神戸新聞総合出版センター
宮田登編『民俗の思想』(「現代民俗学の視点」第3巻)朝倉書店
姜尚中『オリエンタリズムの彼方へ』岩波現代文庫
E. リーチ『社会人類学案内』同時代ライブラリー/岩波書店
岩波講座『日本通史 第14巻/近世4』岩波書店
岩波講座『日本通史 第18巻/近代3』岩波書店
柳田国男『柳田国男全集』ちくま文庫
柳田国男『遠野物語・山の人生』岩波文庫
柳田国男『青年と学問』岩波文庫
柳田国男『妖怪談義』講談社学術文庫
柳田国男『明治大正史 世相篇』講談社学術文庫
柳田国男『蝸牛考』岩波文庫
柳田国男『海上の道』岩波文庫
江上波夫『騎馬民族国家』中公新書
大塚久雄『共同体の基礎理論』岩波現代文庫
宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫




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